逸脱精巣(遊走精巣・引き込み精巣)に関する完全かつ包括的な科学的解説
逸脱精巣(英語では”retractile testis”と呼ばれる)は、小児期において比較的よく見られる現象であり、正常な精巣下降過程の変異の一形態である。本稿では、逸脱精巣の定義、発生機序、臨床的意義、鑑別診断、検査、治療方針、予後、そして将来の研究課題について、現代医学の知見に基づき詳述する。
逸脱精巣とは何か?
逸脱精巣とは、通常は陰嚢内に位置しているが、特定の刺激(寒冷刺激や触診など)や反射により精巣挙筋の収縮が引き金となって、精巣が一時的に鼠径管や上部陰嚢外へ引き込まれる状態を指す。これは病的ではなく、思春期以前の男児においては比較的正常な生理的反応として捉えられることが多い。
逸脱精巣は**停留精巣(陰嚢に精巣が常時存在しない状態)**とは異なる。逸脱精巣では、精巣は医師や保護者の手で陰嚢内に容易に戻すことが可能であり、自然にまた陰嚢に戻ることもしばしばある。
発生機序と病因
逸脱精巣の発生は、主に精巣挙筋反射(cremasteric reflex)の過活動に起因する。精巣挙筋は腹直筋の延長であり、大腿内側の皮膚が刺激されると収縮することで、精巣を上に引き上げる機能を持つ。この反射は小児期に特に強く、寒さや恐怖、触診によっても容易に誘発される。
表:逸脱精巣と停留精巣の比較
| 特徴 | 逸脱精巣 | 停留精巣 |
|---|---|---|
| 精巣の位置 | 一時的に陰嚢外に移動 | 常時陰嚢外に位置する |
| 手動での精巣下降 | 可能 | 難しいまたは不可能 |
| 陰嚢内での保持 | 一時的には可能 | 保持できない |
| 治療の必要性 | 多くは不要 | 多くは手術が必要 |
| 発育障害の可能性 | 通常はない | 高い |
診断方法
逸脱精巣の診断は、主に身体診察によって行われる。特に以下の要素が重視される。
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視診・触診:陰嚢内に精巣が存在するかどうかを確認する。寒冷環境での再現性のある触診が望ましい。
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手動での還納試験:鼠径部にある精巣を手で軽く押し下げて、陰嚢内に戻すことが可能か確認。
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超音波検査:精巣の大きさ、位置、血流状態を評価する補助的手段。
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経過観察:一時的なものか、恒常的な異常かを見極めるため、数ヶ月単位での観察が推奨される。
鑑別診断
逸脱精巣と似た症状を呈する他の疾患には注意が必要である。代表的な鑑別診断には以下がある。
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真性停留精巣:胎生期に精巣が下降せず、陰嚢に到達していない。陰嚢は空虚。
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異所性精巣:精巣が陰嚢以外の位置(大腿、会陰など)にある。
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移動性精巣:陰嚢に精巣があっても頻繁に鼠径部へ移動する(逸脱精巣と重複する定義)。
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精巣捻転:急性の疼痛を伴い、緊急処置が必要。
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陰嚢内ヘルニア:鼠径ヘルニアによって精巣位置が変わることがある。
治療方針
逸脱精巣自体は通常、治療を必要としない生理的状態とされている。しかし、以下のような状況においては介入が検討されることがある。
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思春期までに精巣が恒常的に陰嚢内にとどまらない場合
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精巣の発育不全が認められる場合
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周囲組織との癒着が強く、精巣の自由な移動が妨げられている場合
治療の選択肢には以下がある。
1. 経過観察
多くの場合、自然に陰嚢にとどまるようになるため、6ヶ月から1年単位での定期的なフォローが推奨される。
2. 手術療法(固定術=オルキドペクシー)
まれに精巣が陰嚢に留まらないまま成長を迎える場合、精巣を陰嚢に固定する手術が考慮される。この処置は、将来的な精巣機能の維持や精巣捻転の予防にもつながる。
将来への影響と予後
逸脱精巣の大半は、思春期までに自然に陰嚢内に留まるようになる。したがって、将来的な精巣機能への影響(特に精子形成能や男性ホルモン分泌機能)は基本的に少ないと考えられている。
ただし、一部の症例では思春期に入っても精巣が恒常的に陰嚢外にとどまり、そのまま発育が遅れることがあるため、定期的な泌尿器科または小児科的フォローが重要である。
合併症の可能性
逸脱精巣そのものにより直接的な合併症が起こることは稀だが、以下の点に留意が必要である。
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精巣捻転のリスク(移動性精巣は捻転しやすい位置にある)
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発育障害の可能性(特に両側性の場合)
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陰嚢内温度にさらされないことによる機能的影響(停留精巣に類似)
研究の進展と課題
近年では、精巣挙筋の神経支配やホルモンの影響が逸脱精巣の発生にどの程度寄与しているか、遺伝的要因の関与などが研究されている。また、精巣の自律神経調節異常やエストロゲン感受性といった内分泌学的観点も注目されており、将来的には逸脱精巣の予防や早期診断につながる知見が得られると期待されている。
結論
逸脱精巣は、小児期にしばしば見られる生理的変化であり、必ずしも異常ではない。ただし、停留精巣などの疾患と鑑別が難しい場合があり、慎重な診察と長期的な経過観察が不可欠である。成長とともに多くの症例が自然に解消するが、症例によっては泌尿器科的介入が必要となるため、保護者および医療従事者の理解と連携が求められる。
参考文献
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本記事の情報は、日本の読者の皆様が児童の健康と未来を守るための正確な理解を深める一助となることを目指して構成されている。小児の健やかな成長のために、科学的根拠に基づく適切な対応が必要である。

