ヨルダン西部に位置する都市、アル=スルト(السلط)は、その豊かな歴史と文化遺産により、2021年にユネスコの世界遺産に登録された都市である。この都市は、ローマ時代、ビザンチン時代、そしてオスマン帝国期を通じて、東西交易の重要な拠点であり、また現代ヨルダン国家の誕生においても重要な役割を果たした都市である。この記事では、アル=スルトの中でもとりわけ重要かつ象徴的な考古学的・歴史的遺産について、建築様式やその背景、都市の社会的・宗教的多様性といった視点から包括的に紹介する。
アル=スルトの歴史的背景
アル=スルトは、死海からほど近い丘陵地帯に築かれた都市であり、標高約900メートルに位置している。この都市は、ローマ帝国時代に建設された要塞「ソルトゥス(Saltus)」に由来すると考えられており、以降、ビザンチン、イスラム諸王朝、オスマン帝国と続く長い支配の歴史を経てきた。特に19世紀後半から20世紀初頭にかけては、教育や医療、商業活動の中心地として栄え、今日に残る数多くの歴史建築がこの時期に築かれた。

1. アブ・ジャブリ邸(بيت أبو جابر)
アル=スルトでもっとも壮麗な邸宅の一つが、19世紀末に建てられたアブ・ジャブリ邸である。この邸宅は、地域の有力な商人一族であったアブ・ジャブリ家が所有していたもので、現在はアル=スルト考古学博物館として利用されている。建物は3階建てで、ベージュ色の石灰岩を使用した典型的な「スルト建築様式」に従って建てられており、内部には木製の天井装飾や、19世紀末のヨルダン社会を再現した展示が並ぶ。
特徴 | 内容 |
---|---|
建築様式 | オスマン建築と地中海様式の融合 |
建設年代 | 1892年〜1906年 |
使用石材 | スルト産の黄色石灰岩 |
現在の用途 | 考古学博物館/市民交流センター |
2. ハマーム・アル=スルト(スルト公共浴場)
オスマン帝国期の都市生活に欠かせない施設であった**ハマーム(公共浴場)**もまた、アル=スルトに現存している。これらのハマームは、清潔さの保持のみならず、社会的交流や宗教的浄化の場として機能していた。スルトのハマームは、アーチ型の天井とドーム状の照明口を持ち、伝統的な加熱システム(ハイポカウスト)を採用している点で注目に値する。現在は保存修復中であり、歴史的文化資産としての価値が高く評価されている。
3. アル=フサイニ・モスク(جامع الحسيني)
スルト市の中心部に位置するアル=フサイニ・モスクは、宗教的建築の代表例である。このモスクは1920年代に建設され、スルトにおけるイスラム文化の中心として機能してきた。建物は、ドーム、ミナレット(尖塔)、幾何学模様の装飾を特色とし、信仰と建築美の融合が感じられる。周辺にはスーク(市場)も広がっており、都市の社会・経済活動の要となっている。
4. ラティブ・ナシャシュビ邸(بيت نشاشيبي)
この邸宅は、20世紀初頭の自由思想家であり教育者であったラティブ・ナシャシュビの家として知られている。建物の設計は、オスマン建築とヨーロッパ建築(特にイタリアン・ルネサンス様式)の融合を特徴としており、左右対称の外観、広々とした中庭、木製の装飾窓が印象的である。この邸宅は現在、文化センターおよび市民の学習拠点として利用されており、教育都市スルトの象徴的存在となっている。
5. 聖ジョージ教会と宗教共存の象徴
アル=スルトが世界遺産として登録された主な理由の一つが、「宗教的共存と寛容の伝統」である。特に注目すべきは、聖ジョージ東方正教会であり、1880年代に建設されたこの教会は、イスラム教徒とキリスト教徒が数世代にわたり調和して暮らしてきた証として残されている。教会内のモザイク画やイコン、木彫りの装飾は芸術的にも価値が高く、訪問者に深い感動を与える。
6. 聖ニコラオス学校跡地と教育の歴史
スルトは、ヨルダンの近代教育の発祥地としても知られており、1900年頃に設立された聖ニコラオス学校は、宗教を超えた共学制度をいち早く導入した先進的な教育機関であった。現在は遺構として一部が残るのみだが、その場所には記念碑が建てられており、スルトの教育的遺産として保存されている。
7. スルトの伝統的家屋群と都市構造
スルト旧市街には、30棟以上の伝統的石造住宅が集中しており、いずれも19世紀末から20世紀初頭にかけて建設されたものである。これらの住宅は、中央に広い中庭を持ち、複数世帯が共同で暮らすことを想定して設計されていた。スルトの都市構造は、「マクハトラ」(隣人同士の相互扶助)という伝統に基づいており、道幅が狭く、家々が密接に建てられている点に特徴がある。
建築構造 | 主な特徴 |
---|---|
中庭形式 | 家族や隣人の交流の場 |
屋根 | フラット型、雨水貯蓄機能あり |
石材 | 地元産の黄色石灰岩 |
装飾 | 木製のバルコニーや幾何学模様の彫刻 |
保全と観光の現状
ユネスコの世界遺産登録以降、アル=スルトでは複数の保全プロジェクトが進行中である。ヨルダン政府は、市内の歴史的建造物を修復し、博物館や文化施設として活用することで、観光客の増加と地域経済の活性化を目指している。また、地元住民がガイドとして活躍する「歴史散策ツアー」や、「文化体験型宿泊施設」なども整備されつつあり、持続可能な観光都市への道を歩んでいる。
結論
アル=スルトは、単なる遺跡の集積地ではなく、宗教的共存、教育的進歩、市民の連帯といった価値を体現した「生きた遺産都市」である。そこには、石造の建物に刻まれた歴史、家々に宿る共同体の記憶、そして宗教を超えた寛容の精神が息づいている。観光や研究の対象としてだけでなく、現代の社会における共生と多様性の象徴として、アル=スルトが持つ歴史的遺産は非常に意義深いものである。
参考文献:
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UNESCO World Heritage Centre. “The city of Salt.” (https://whc.unesco.org/en/list/6668/)
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Ministry of Tourism and Antiquities, Jordan. “Salt: The City of Tolerance and Urban Hospitality.”
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Toukan, Rula. “Salt’s Architectural Heritage: Conservation Challenges and Urban Identity.” Middle Eastern Studies Journal, Vol. 58, 2022.
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Al-Khalidi, Tarek. “Civic and Religious Coexistence in Salt.” Jordan Heritage Review, 2021.