文化

アジャムとは誰か

「アジャム」とは誰か:歴史的・文化的視点からの総合的考察

「アジャム」という言葉は、アラブ世界の歴史・文学・政治・宗教において非常に重要かつ多義的な意味を持つ表現である。その使用は単なる民族的な区別にとどまらず、時代や文脈によって文化的、宗教的、言語的、政治的ニュアンスをも帯びる。本稿では、「アジャム」という語が指す対象、言葉の起源、その使用の歴史的変遷、そして今日における意味合いについて、包括的かつ批判的に論じる。


アジャムという語の語源と初期の用法

「アジャム」という語は、古典アラビア語の語根「ʿ-j-m」(発音の明確でない、または話し方が不明瞭な)に由来するとされる。元々は「言葉が明確でない者」「アラビア語を話せない者」を意味しており、初期のアラブ人が自民族と他民族を言語的に区別するために使用した概念である。したがって、「アジャム」は当初、「非アラブ人」、特にアラビア語を話さない者を意味していた。

この語の最も古い用法の例は、アラブ・イスラーム以前の詩や物語、そしてイスラーム勃興期の歴史書などに見られる。特にイスラーム初期においては、主にペルシャ人を指す言葉として使われていたが、それに限定されるものではなかった。


イスラーム拡大期における「アジャム」の意味の変容

7世紀以降、イスラームの拡大とともに、アラブ人はペルシャ、ビザンチン、エジプト、北アフリカ、さらにはアンダルスや中央アジアといった広大な地域を支配するようになった。この過程において、アラブ人以外の多くの民族がイスラームに改宗し、イスラーム共同体(ウンマ)の一員となった。

この時期、「アジャム」は単に言語的区別にとどまらず、「非アラブ系ムスリム」という意味を持ち始めた。つまり、アラブ人とイスラームを共有するが、文化的・民族的には異なる背景を持つ人々を指すための用語として機能した。代表的な例としては、アッバース朝時代のペルシャ人官僚や学者が挙げられる。

この時代に成立した「シュウービーヤ運動」は、アラブ人至上主義に対抗し、非アラブ系ムスリムの文化的貢献を主張するものであった。特にペルシャ人は、詩、科学、行政、哲学の分野で大きな影響を与え、「アジャム」というレッテルが必ずしも否定的な意味ではなく、むしろ誇りの対象となる側面も持つようになった。


中世イスラーム世界におけるアジャムの定義と使用の広がり

アッバース朝以降、イスラーム世界は多民族化が進み、「アジャム」という語もより多様な意味を持つようになる。この語は、以下のような複数の文脈で使用された。

  1. 言語的意味

    非アラビア語話者、特にペルシャ語話者やトルコ語話者などを指す言葉として使われた。文学的な場面では、「アジャム語」はしばしばペルシャ語と同義で用いられる。

  2. 文化的意味

    アラブ的価値観に対する異文化的な伝統、特にゾロアスター教的背景やサーサーン朝の儀礼・政治制度などを持つ社会を意味した。

  3. 宗教的意味

    非ムスリム、特にゾロアスター教徒、マズダク教徒などを指す場合もあったが、文脈に依存する。

  4. 政治的意味

    アラブ帝国の周辺または内部でアラブ人に統治される側の被支配民族を総称する用語となる。


詩と文学における「アジャム」

古典アラビア詩や文学作品において、「アジャム」はしばしば異国情緒や文化的豊かさの象徴として描かれた。特にペルシャの詩や物語がアラブ世界に与えた影響は極めて大きく、多くのアラブ詩人がアジャム的様式(韻律、比喩、主題)を取り入れた。

一方で、一部のアラブ文学では「アジャム」が野蛮、不道徳、または神を知らない者として描かれることもあり、この語が持つ両義的な性格が文学的にも反映されている。


近代以降における用法の変化

近代になると、「アジャム」という語の使用頻度は減少するが、依然として一部の国・地域では文化的アイデンティティを示す言葉として使われ続けている。

例えば、イランでは「アジャム」がペルシャ文化に誇りを持つ言葉として再評価されることもあり、逆に一部のアラブ社会では今なお侮蔑的な語感を持つこともある。使用の是非が政治的・感情的な議論を呼ぶことも多く、その扱いは慎重を要する。

現代の学術的言説では、「アジャム」は主に歴史的・文化的区分を示す中立的な術語として使用されており、言語・文学・民族研究の分野では依然として重要な分析概念である。


表:時代別に見た「アジャム」の定義と対象

時代 定義の主軸 対象となる人々または文化 ニュアンスの変化
イスラーム以前 言語的 アラビア語を話さない人々 単なる区別(中立的)
正統カリフ〜ウマイヤ朝 言語・民族的 主にペルシャ人 劣位的な意味を帯びる
アッバース朝 文化・宗教的 非アラブ系ムスリム、ペルシャ系文化 両義的(尊敬と差別が共存)
中世イスラーム 政治・文化的 被支配民族、多民族的市民 多義的、時に称賛的
近代〜現代 民族・アイデンティティ ペルシャ人、非アラブ系社会 地域により賛否が分かれる

結論

「アジャム」という語の本質は、アラブ・イスラーム世界における自己と他者の認識、そしてその変遷を象徴する文化的記号である。この語が持つ意味は固定的ではなく、使用される時代、地域、文脈によって大きく異なる。言語的な他者を意味する言葉が、文化的貢献者を意味する尊称となり、さらには時に差別的にも用いられてきたその歴史は、アラブ・イスラーム文明がどれほど多層的かつ多元的であるかを物語っている。

現代においてこの語を使用する際には、その背景にある歴史的文脈と感情的な重みを理解する必要がある。そして、「アジャム」が意味するのは単なる「他者」ではなく、アラブ文明を共に築き上げた文化的パートナーでもあるという視点が、今こそ求められている。


参考文献

  • アル=ジャーヒズ『動物の書』

  • 井筒俊彦『イスラーム文化』

  • フィリップ・ヒッティ『アラブの歴史』

  • 田中敏雄『イスラーム世界の歴史と文化』

  • マーシャル・ホジソン『イスラームの冒険』

  • 加藤博『イスラーム世界の民族と社会』

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