「バハル・アッ=ズルマート(بحر الظلمات)」とは何か:歴史、伝承、科学的背景に基づく全体像
「バハル・アッ=ズルマート( بحر الظلمات )」は、日本語で直訳すると「闇の海」「暗黒の海」を意味する。この語は中世イスラム世界の地理書、文学作品、さらには伝説において頻繁に登場し、しばしば未知で危険な海域、すなわち現在の大西洋と同一視される。本稿では、「バハル・アッ=ズルマート」の語源、歴史的文脈、科学的背景、そして文化的意義について徹底的に考察し、今日におけるその意味を明らかにする。

歴史的背景と語源の解明
「バハル・アッ=ズルマート」という語は、アラビア語由来であり、「بحر(バハル)」は「海」、「الظلمات(アッ=ズルマート)」は「暗闇」または「闇」を意味する。これが指すのは、単なる物理的に暗い海ではなく、「未知で到達不可能な海」、あるいは「神秘に包まれた場所」としての象徴であった。
この語句が登場する最も古い記録は、9世紀から12世紀にかけてのアラビア語地理書にある。特に有名なのは、アッ=イドリーシー(アル=イドリースィー)の『ルジェールの書』や、アブー・バクル・アッ=ザカリヤー・アル=カズウィーニーの地理書『アジャーイブ・アル=マフルカート』などである。彼らは当時の地理的知識と伝説を融合させて、この「闇の海」が文明の端にある、超自然的存在の領域であると記述している。
「バハル・アッ=ズルマート」と大西洋
多くの学者は、「バハル・アッ=ズルマート」は現代で言うところの大西洋に相当すると考えている。これは、当時のムスリム航海者にとって、大西洋が明確な地図上に描かれることはなく、海図の「果て」に位置し、通行不能な海域と見なされていたからである。
この大西洋に対する恐怖と神秘性は、以下の点において理解される:
項目 | 内容 |
---|---|
航海の難易度 | 強い潮流、嵐、未知の水域による遭難リスク |
太陽の沈む場所 | 夕方の太陽が沈む方向(西)にある海とされ、死と再生の象徴的空間とされた |
地の果ての概念 | イスラム圏においても、当時の地理知識では「地の果て」=「闇の海」として捉えられた |
無帰還の伝承 | この海に出たものは帰ってこないという逸話が多数存在した |
このような地理的・心理的要因が、「バハル・アッ=ズルマート」という語に宗教的・伝説的な重みを与えたのである。
哲学的・宗教的象徴
「バハル・アッ=ズルマート」は、物理的な意味を超えて、精神的・宗教的なメタファーとしても理解されてきた。
イスラムの啓典であるクルアーンには、「ズルマート(闇)」という語がしばしば登場し、それは無知、不信仰、そして神からの距離を意味することが多い(例:クルアーン第6章「家畜」122節)。
この文脈において、「バハル・アッ=ズルマート」は人間の無知、つまり神の知識に到達できない領域を象徴するとも考えられてきた。このような象徴性は、中世のイスラム神秘主義(スーフィズム)や詩にも見られる。
航海と冒険の伝承
歴史的には、「バハル・アッ=ズルマート」へ航海を試みた者の記録も残っている。最も有名な逸話は、ムスリム航海者「マグリビーのマルディン兄弟」に関するものである。彼らは、この「闇の海」へと出帆し、帰還することはなかったという伝説が残されている。
また、アンダルス出身の哲学者・旅行家イヴン・ファティマも、大西洋へと乗り出した記録がある。彼は、航海の先に「謎の島々」や「楽園」があると信じ、それらを探し求めて航海に出たとされる。
このように、「バハル・アッ=ズルマート」は中世イスラム世界における「フロンティア」としての役割を果たし、冒険と探求心の象徴でもあった。
現代の視点からの再評価
現代において、「バハル・アッ=ズルマート」は単なる歴史用語ではなく、古代イスラム世界の世界観や自然認識のあり方を示す重要なキーワードであると評価されている。
科学的な観点からすれば、大西洋は当時の技術や航海術では極めて困難な海であり、航海者にとってはまさに「闇」に満ちた領域であった。21世紀の現代ではGPS、衛星通信、海図技術の進歩により、大西洋の大部分は詳細に調査され、航行可能となったが、それでもなお深海の探査などは完全ではなく、「人類未踏の領域」としての神秘性は一部に残っている。
さらに、文化的・宗教的研究の分野では、「バハル・アッ=ズルマート」を通じてイスラム世界における「知の境界」や「超越的世界観」がどのように形成されていたかを読み解く鍵ともなっている。
学術的文献と出典の引用
著者 | 書名 | 出版年 | 内容の要約 |
---|---|---|---|
アル=イドリースィー | 『ルジェールの書』 | 1154年 | シチリア王ロジェール2世のために書かれた地理書。地球は球体であり、海と大地で構成されているとする。バハル・アッ=ズルマートについても記述あり。 |
アブー・ザイド・アル=バルヒー | 『諸地域の道と国』 | 875年頃 | 航海に関する伝承や、海の恐怖を記述。「闇の海」は越えるべからざる存在として描かれる。 |
アブー・バクル・アル=カズウィーニー | 『創造の驚異』 | 13世紀 | 地理と宇宙論、神の創造に関する記述を含み、暗黒の海を宇宙の果ての象徴として描写。 |
結論
「バハル・アッ=ズルマート」は、単なる「暗い海」を指すのではなく、中世イスラム世界における地理的、神話的、宗教的、哲学的意味を包含した複合的な概念である。その背後には、未知への畏怖、世界の果てへの好奇心、そして精神世界と物質世界の境界を超えようとする知的探求心があった。
この用語を理解することは、単に歴史的な知識を得るだけでなく、文化的アイデンティティや世界観の成り立ちを見つめ直す手がかりともなる。現代の科学と結びつけながら、我々がどのように「未知」を認識し、対峙しようとしてきたのかを考えることは、今なお非常に価値のある試みである。
参考文献:
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Idrisi, Al-Sharif. Nuzhat al-mushtaq fi ikhtiraq al-afaq. 1154.
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Al-Kazwini, Zakariya. ʿAjā’ib al-Makhlūqāt wa-Gharāʾib al-Mawjūdāt. 13世紀.
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Hitti, Philip K. History of the Arabs. Macmillan, 1937.
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Hourani, George. Arab Seafaring in the Indian Ocean in Ancient and Early Medieval Times. Princeton University Press, 1951.