スティーブ・ジョブズ、エド・キャットムル、ジョン・ラセターといった革新的なクリエイターたちによって築かれた「ピクサー・アニメーション・スタジオ」は、単なるアニメ制作会社ではなく、創造性と技術革新の理想的な融合体である。その中核にあるのが、エド・キャットムルによって書かれた『会社のような創造性(Creativity, Inc.)』である。本書は、アートと科学、直感と分析、秩序と混沌のバランスを探る試みとして、ピクサーの内側から創造性を科学する数少ない貴重な資料である。以下、本書の主要なテーマ、実践、哲学、影響について、科学的かつ人間的な視点から分析し、日本語読者のために深掘りしていく。
ピクサー誕生の背景とエド・キャットムルのビジョン
ピクサーの創設は、一見技術的進歩の物語に見えるが、実際には人間の創造性を最大限に引き出すための環境作りという、極めて人間工学的な実験でもあった。コンピューターグラフィックスの黎明期に、ユタ大学でコンピュータサイエンスを学んだエド・キャットムルは、「コンピューターでアニメーション映画を作る」という夢を抱く。その夢が実現されたのが、ピクサーという企業体制だった。

創業当初、ピクサーはルーカスフィルムの一部としてスタートしたが、のちにスティーブ・ジョブズが買収し、独立した会社としての道を歩む。ここで重要なのは、ピクサーが単に技術的な会社ではなかったという点である。ジョブズは資金を提供し、キャットムルとラセターは組織文化とクリエイティブな哲学を築いていった。
「創造性」を科学する:管理と自由の狭間で
キャットムルは、本書において繰り返し「創造性は神秘的な才能ではなく、環境によって育まれる性質である」と主張する。これは認知心理学における環境依存学習の考え方とも一致する。ピクサーが重視したのは、単なる「自由な発想」ではなく、「安全に失敗できる空間」を作ることだった。これを象徴するのが以下の原則である。
ブレイントラスト(Braintrust)の導入
ピクサーでは、プロジェクトの開発段階で定期的に行われるフィードバック会議が存在する。これが「ブレイントラスト」である。特徴的なのは、会議において上下関係が存在しない点である。参加者はプロジェクトの責任者であろうと新人であろうと、対等に意見を述べることが求められる。この構造は、心理的安全性(psychological safety)の原則に則っており、現代の組織心理学における最重要要素の一つである。
透明性と信頼の文化
ピクサーでは、問題を隠すことよりも共有することが奨励されている。これは失敗の早期発見と修正を可能にする。たとえば、『トイ・ストーリー2』の制作中、プロジェクトは一度白紙に戻された経験がある。その際、チームメンバー全員がプロジェクトの欠陥を認識し、透明性を持って議論したことが、最終的な成功へとつながった。
リーダーシップとマネジメント:創造性を支える構造
ピクサーのリーダーシップ哲学は、「管理すること」ではなく、「創造性を妨げないようにすること」に重きを置いている。これは、従来のトップダウン型管理とは異なり、現代のアジャイル開発やフラット組織論とも共鳴する。
マネージャーの役割再定義
キャットムルは、マネージャーの役割を「問題解決者」ではなく「障害除去者」と定義している。たとえば、アーティストが創造的な作業に集中できるよう、煩雑な報告義務や無駄な会議を排除し、必要なリソースを的確に供給する。それによって、チームメンバーは自己決定理論に基づく内発的動機付けを維持できる。
意図的な偶然性:創造性のための計画された混乱
ピクサーでは、異なるプロジェクトチームのメンバーがランダムに交流できる空間設計が行われている。たとえば、カフェテリアや共有スペースを一箇所に集中させ、偶然の出会いから新しいアイデアが生まれるようにする。これは「セレンディピティ(serendipity)」の効果を組織的に活用した例である。
ピクサー式フィードバックと意思決定の科学的根拠
エド・キャットムルは、フィードバックのプロセスにおいて「相手を変えることではなく、考えるきっかけを与えること」を目指している。これは、現代の教育学におけるメタ認知(metacognition)の促進と同じ構造を持つ。
以下の表は、ピクサーにおけるフィードバックの設計と、従来型組織との違いをまとめたものである。
要素 | ピクサー型 | 従来型組織 |
---|---|---|
フィードバックの目的 | 考えを深める | 成績を評価する |
形式 | 自由対話 | 定型報告 |
対象 | 全メンバー | 部下のみ |
効果 | 発想の転換 | 防衛的反応 |
「失敗」を歓迎する文化と、その科学的根拠
ピクサーでは、失敗が「データ」として扱われる。これは、行動心理学でいうところのフィードバックループ(feedback loop)の概念に沿っている。たとえば、『カーズ2』や『ダイナソー』のように、批評家からの評価が振るわなかった作品に対しても、社内ではそれを糾弾するのではなく、「次の成功のための実験結果」として分析する。
これは、「成長マインドセット(growth mindset)」の促進にもつながる。スタンフォード大学のキャロル・ドゥエック教授が提唱するこの概念は、失敗を通じて成長できるという信念を持つことで、学習と創造の能力が飛躍的に向上するというものである。
技術革新と創造性の両立:テクノロジーは敵か味方か
ピクサーにおいては、テクノロジーは単なる道具ではなく、創造性を拡張するためのパートナーと位置付けられている。たとえば、独自開発された「RenderMan」というレンダリングソフトは、『ファインディング・ニモ』などの作品でリアルな水の表現を可能にした。このように、アーティストとエンジニアが対等に協働する体制が、テクノロジーとアートの融合を実現している。
ピクサー文化の外部適用可能性と限界
キャットムルは、ピクサーの成功モデルを他企業に適用する際には注意が必要であると述べている。文化というものは移植が難しく、同じ構造を真似ても同じ成果が出るとは限らない。しかし、以下の原則は多くの組織で再現可能である。
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心理的安全性の確保
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フィードバックの質向上
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階層の柔軟化
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失敗の受容
これらは、教育、医療、行政などの分野にも応用可能であり、日本社会における組織変革にも有効である。
結論:創造性とは構築可能な科学である
『会社のような創造性』は、単なる経営書でも、回顧録でもなく、創造性という「捉えにくい現象」を実践を通じて可視化し、再現可能な理論として提示した稀有な書籍である。日本の読者にとって特に価値があるのは、本書が「天才」や「ひらめき」に依存せず、環境設計と文化構築によって、誰もが創造的であり得るという信念を基に書かれている点にある。
変化が求められる今、ピクサーのように「創造性を組織する」姿勢が、教育機関、企業、地方自治体にとって不可欠な哲学となるだろう。本書は、その道しるべとして、日本でも長く読み継がれるべき名著である。
参考文献
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Ed Catmull, Amy Wallace『Creativity, Inc.』(Random House, 2014)
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Carol S. Dweck, 『Mindset: The New Psychology of Success』(Ballantine Books, 2006)
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Amy Edmondson, 『The Fearless Organization』(Wiley, 2018)
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石井淳蔵『サービスの思想』(有斐閣, 2010)
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小室淑恵『ワーク・ライフバランスの経営学』(日本経済新聞出版社, 2016)