モロッコの建築芸術は、何世紀にもわたる多様な文明の影響を受けて発展してきた独自の文化的表現であり、宗教的、社会的、地理的な要素が織り交ぜられた複雑で豊かな様式を示している。ベルベル、アラブ、アンダルシア、さらにはフランス植民地時代の影響までが融合し、建築の形状、装飾、素材、構造技術などに反映されている。この建築芸術は単なる空間の設計ではなく、人間の精神性、共同体意識、自然との共存を表現する手段でもある。
モロッコ建築の最も顕著な特徴のひとつは、装飾の精緻さと象徴性にある。建物の壁や天井、床、噴水、門などあらゆる表面が幾何学模様やアラビア書道、植物モチーフなどで装飾されており、それぞれが深い意味を持っている。これらの装飾は、単なる美観のためではなく、イスラームの無象徴主義に則って、神聖な秩序と宇宙の調和を表現する役割を果たしている。

特に注目すべきなのが「ゼリージュ(zellige)」と呼ばれるモザイクタイル技法である。この技法は、色とりどりの釉薬をかけた小さなテラコッタ製のタイルを幾何学的に組み合わせて壁面や床を装飾するもので、モロッコ建築に欠かせない要素となっている。ゼリージュのパターンは数学的に緻密で、視覚的に無限の広がりを感じさせ、観る者に深い精神的安定と感銘を与える。
また、「ムーア建築」の影響を色濃く受け継いでいる点も重要である。ムーア様式とは、スペイン・アンダルシア地方のイスラーム建築の影響を指し、特にグラナダのアルハンブラ宮殿にその最盛期の様相が見られる。このスタイルはモロッコにも逆輸入され、リヤド(中庭付き邸宅)やマドラサ(神学校)、モスク、宮殿などに取り入れられた。アーチ状の門、馬蹄形の窓、透かし彫りの石膏細工(ステュッコ)、彫刻された木製天井、巧妙な水の流れを組み込んだ中庭設計などがその代表例である。
モロッコ建築の中心的な建造物といえばモスクである。モスクは単に宗教儀式の場というだけでなく、都市の精神的な中心として設計されている。たとえば、フェズにあるカラウィーン・モスクや、マラケシュのクトゥビーヤ・モスク、カサブランカのハッサン2世モスクなどは、建築的にも技術的にも高度な完成度を示しており、都市のランドマークとなっている。特にハッサン2世モスクは、海上に突き出す設計が印象的であり、20世紀末の建築でありながら伝統的要素を巧みに取り入れている。
住宅建築の分野では、リヤド(riad)と呼ばれる邸宅がモロッコ独特の住居形態として知られている。リヤドは一般的に外部からは非常に控えめな外観を持つが、内部には豊かな装飾が施された中庭を中心とした構造になっており、静けさとプライバシーを重視した空間設計がなされている。中庭には多くの場合、噴水やオレンジの木、タイル張りの床などがあり、家族や来客が安らげる場所として機能している。
さらに、カスバ(kasbah)と呼ばれる要塞化された集落も、モロッコの建築遺産の中で重要な位置を占めている。特にアイト・ベン・ハドゥのカスバはユネスコの世界遺産にも登録されており、日干しレンガと土を主な建材としたこの集落は、サハラ砂漠周辺の過酷な気候条件に適応した建築技術の集大成である。厚い壁、わずかな開口部、風通しの良い塔などが特徴であり、持続可能な建築の好例ともいえる。
一方、フランス植民地時代の影響もモロッコの都市計画と建築に一定の足跡を残している。20世紀初頭に計画的に建設されたヌーヴェル・ヴィル(新市街)は、ヨーロッパ様式の建物とモロッコ様式が融合した独特の都市景観を形成しており、カサブランカやラバトなどの大都市では現代的なビル群と伝統的建築が共存している。この都市構造の二重性こそが、モロッコの多層的文化の象徴ともいえる。
以下に、モロッコの建築様式の主な要素を表にまとめる:
建築要素 | 説明 |
---|---|
ゼリージュ | 幾何学模様のタイル装飾技法。色彩と形状の組み合わせで神秘性を表現。 |
リヤド | 中庭を中心とした邸宅建築。プライバシーと自然調和を重視。 |
ムーア様式 | アンダルシア由来の装飾的建築様式。馬蹄形アーチ、透かし彫りなどが特徴。 |
カスバ | 防御的機能を持つ集落。日干しレンガを使用した持続可能な建築。 |
ステュッコ装飾 | 石膏を使った彫刻的装飾。モスクや宮殿の内装に多用される。 |
木彫天井 | セドロ材などを用いた天井彫刻。伝統的な技法で宗教的意味合いを持つ。 |
マシュラビーヤ | 木製の格子窓。通風と視線遮断の両立を図ったイスラーム建築の工夫。 |
また、モロッコの建築では「水」と「光」の活用も重要なテーマとなっている。水はイスラーム文化において清浄と生命の象徴であり、中庭の噴水やハマム(公衆浴場)などに巧みに取り入れられている。光に関しても、直射日光を避けつつ室内に柔らかな光を取り込むために、格子窓や間接光を活かす設計がなされている。
近年では、伝統的建築技術を再評価しながらも、現代的な機能性や環境への配慮を取り入れた新たなモロッコ建築の潮流も生まれている。グリーンビルディングや再生素材の活用、太陽光発電の導入などが注目されており、サステナブルな都市開発に向けた取り組みも進んでいる。
総じて言えば、モロッコの建築芸術は単なる様式や技法の集積ではなく、風土と歴史、宗教と芸術、伝統と革新が複雑に絡み合った生きた文化の表現である。その建築空間のひとつひとつが、人々の暮らしと精神を支える重要な場であり、世界の建築史においても類を見ない独自性を備えている。未来においてもこの伝統が継承され、新たな文脈で再創造されていくことは、モロッコ建築の更なる進化に繋がるであろう。
参考文献:
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Barrucand, M., & Bednorz, B. (1992). Moorish Architecture in Andalusia. Taschen.
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Parker, R. (2009). A Practical Guide to Moroccan Architecture and Design. Antique Collector’s Club.
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Bloom, J. M., & Blair, S. S. (2009). The Grove Encyclopedia of Islamic Art and Architecture. Oxford University Press.
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UNESCO World Heritage Centre: https://whc.unesco.org