口腔と歯の健康

味覚喪失の原因と対策

味覚喪失の原因:完全かつ包括的な科学的解説

味覚は、人間の五感の一つとして、私たちが食物を楽しみ、危険な物質を避け、栄養摂取のバランスを保つために極めて重要な感覚である。この味覚が失われる、あるいは著しく低下する状態は「味覚喪失(味覚障害)」と呼ばれ、日常生活に多大な影響を及ぼす。本稿では、味覚喪失の主な原因、関連する疾患、診断法、治療法、そして予防策に至るまで、科学的根拠に基づいて詳細に解説する。


1. 味覚の基本メカニズム

味覚は、舌、口腔、咽頭、喉頭に存在する味蕾(みらい)と呼ばれる感覚受容器によって感知される。味蕾は主に5つの基本味(甘味、酸味、塩味、苦味、うま味)を認識し、それらの情報は顔面神経(第VII脳神経)、舌咽神経(第IX脳神経)、迷走神経(第X脳神経)を通じて脳へ伝達される。味覚の認識には、嗅覚や触覚、温度感覚も深く関与しているため、これらが障害されても味覚に影響を与えることがある。


2. 味覚喪失の種類

味覚喪失にはいくつかの形態が存在する。

分類 説明
完全味覚喪失(Ageusia) 味覚が完全に失われた状態
部分味覚喪失(Hypogeusia) 味覚が一部低下している状態
味覚異常(Dysgeusia) 味の認識が歪む、例えば金属のような味を感じる
錯味症(Parageusia) 通常の味とは異なる不快な味を常に感じる

これらの症状は、単独または複数が併発することがある。


3. 味覚喪失の主な原因

3.1 上気道感染症とウイルス感染

風邪やインフルエンザ、特に新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)などのウイルス感染症は、味覚喪失の最も一般的な原因の一つである。これらのウイルスは味蕾細胞を直接攻撃したり、味覚神経の伝達経路に炎症を起こすことがある。

3.2 嗅覚障害との関連

嗅覚と味覚は密接に関係しており、食物の風味を感じるには嗅覚が不可欠である。したがって、嗅覚障害(例:慢性副鼻腔炎、鼻ポリープ、鼻詰まりなど)は、間接的に味覚の低下または喪失を引き起こす。

3.3 薬剤の副作用

以下のような薬剤は、味覚に影響を与えることが知られている:

  • 抗ヒスタミン薬

  • 抗うつ薬

  • 降圧薬(ACE阻害薬など)

  • 化学療法薬(特に白金製剤)

  • 抗菌薬(クラリスロマイシンなど)

薬剤による味覚障害は、投与を中止または変更することで改善されることがある。

3.4 放射線治療

頭頸部に対する放射線治療は、味蕾や唾液腺を破壊し、長期にわたり味覚喪失を引き起こすことがある。これは特に頭頸部がんの治療後に多く報告されている。

3.5 栄養欠乏

  • 亜鉛欠乏:亜鉛は味蕾の再生に必須であり、不足すると味覚異常や喪失を招く。

  • ビタミンB12欠乏:神経伝達に関与するこのビタミンが不足すると、味覚や嗅覚にも影響を及ぼす。

3.6 神経疾患・損傷

顔面神経や舌咽神経が損傷されると、該当領域の味覚が消失する。原因としては以下が挙げられる:

  • 顔面神経麻痺(ベル麻痺など)

  • 頭部外傷

  • 脳腫瘍

  • 多発性硬化症(MS)

3.7 加齢

加齢に伴って味蕾の数が減少し、味を感知する能力が低下する。特に高齢者では亜鉛の吸収も低下しやすいため、複合的な影響が生じやすい。

3.8 口腔内の病変

  • 口腔乾燥症(ドライマウス)

  • 口内炎

  • 歯周病

  • 義歯の不適合

これらの問題は、味蕾の働きを妨げたり、味の伝達経路に影響を与える。


4. 診断方法

味覚障害の診断には、以下のような手法が用いられる。

4.1 問診と視診

医師は患者の症状、既往歴、薬剤使用歴、生活習慣などを詳細に聴取する。また、口腔内の状態や鼻腔の健康状態も確認する。

4.2 味覚検査

  • 電気味覚検査:舌に微弱な電流を流し、感覚反応を測定する。

  • 化学味覚検査:特定の味物質(塩化ナトリウム、クエン酸など)を舌に塗布し、感知の有無を評価する。

4.3 血液検査

栄養素(特に亜鉛、ビタミンB12、鉄)の欠乏を調べる。

4.4 嗅覚検査

嗅覚の障害が味覚に与える影響を評価するため、併せて実施されることが多い。


5. 治療法

治療は原因に応じて異なるが、以下が主なアプローチである。

5.1 原因疾患の治療

例えば、慢性副鼻腔炎が原因であれば抗生物質や手術治療を行う。薬剤性であれば医師の指導のもとで薬の変更または中止を検討する。

5.2 栄養補充

  • 亜鉛補給:グルコン酸亜鉛などの経口サプリメントが処方される。

  • ビタミン補充:必要に応じてビタミンB12や鉄の補充も行う。

5.3 味覚リハビリテーション

味覚トレーニングや、感覚刺激によるリハビリが行われる場合がある。例えば、味の異なる食品を意識的に摂取し、味覚の再認識を促進する方法がある。

5.4 唾液分泌の改善

口腔乾燥症が関与している場合、唾液分泌を促す薬剤(ピロカルピンなど)や人工唾液の使用が効果的である。


6. 味覚喪失による心理的影響とQOLの低下

味覚は単なる栄養摂取の手段だけでなく、食事の楽しみ、社会的交流、精神的満足とも密接に関わっている。味覚喪失により、

  • 食欲の低下

  • 体重減少または過食

  • うつ病や不安障害のリスク増加

といった精神的・身体的問題が発生する。特に孤独感や食事の喜びの喪失は、生活の質(QOL)を大きく損なう可能性がある。


7. 予防と日常生活での対策

対策 説明
栄養バランスの確保 亜鉛・ビタミンB12を含む食品(牡蠣、赤身肉、ナッツなど)を積極的に摂取する
口腔衛生の維持 正しい歯磨き、定期的な歯科検診、舌の清掃
鼻腔・副鼻腔の健康管理 アレルギー対策や加湿器の使用で粘膜を保護
禁煙 喫煙は味蕾の機能を低下させるため、禁煙が推奨される
医薬品の使用管理 医師の指導の下、必要最小限の薬剤使用に留める

8. おわりに

味覚喪失は決して軽視すべき症状ではない。単なる「味がしない」だけでなく、その背景には深刻な疾患や生活の質の低下が隠れていることもある。科学的な理解を深め、適切な診断と治療、そして予防を行うことが、味覚というかけがえのない感覚を守る第一歩である。現在の医療は、味覚障害に対する多くの知見と対処法を提供している。早期の対応が回復の可能性を高めるため、違和感を覚えた場合は速やかに専門医を受診することが重要である。


参考文献

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  4. World Health Organization. “Neurological Disorders: Public Health Challenges.” WHO Press, 2006.

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