人間の自然な本性に根ざした宗教的慣習として、イスラームにおける「フィトラのスンナ(سنن الفطرة)」は、身体と精神の純粋さを保つために奨励される一連の行動様式である。これらの行為は、イスラームの預言者ムハンマドによって示されたものであり、清潔さ、美しさ、そして倫理的な生き方を支える基盤とされている。これらのスンナは、シャリーア(イスラーム法)の義務には至らないものの、強く推奨される宗教的実践として、ムスリムの生活に深く根付いている。
フィトラのスンナの定義と意義
「フィトラ(فطرة)」とはアラビア語で「自然の本性」や「神が人間に与えた本来の状態」を意味する語である。イスラームでは、人間は本来的に善と清潔を愛する性質を持って創造されたとされており、フィトラのスンナはその自然な傾向を維持・強化するための実践である。イスラームの預言者ムハンマドは、これらの行為を実生活において実践し、その重要性を説いた。以下では、フィトラのスンナとされる十の主要な行為を詳しく解説する。

1. 包皮の切除(割礼)
割礼は、男子の性器の包皮を切除する行為であり、イスラーム社会において広く行われている。医学的にも衛生面の利点が指摘されており、尿道感染症や性病のリスクを軽減するとされる。イスラームにおいては、割礼は義務ではないが、預言者のスンナとして非常に強く奨励されている。
医学的背景:
健康上の利点 | 説明 |
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感染症予防 | 包皮内に菌が繁殖しにくくなる |
陰部の清潔 | 日常的な洗浄が容易になる |
性病リスク軽減 | HIVやHPVなどの感染率が下がる |
2. 恥毛の処理
陰毛、特に恥部周辺の毛を定期的に処理することは、清潔を保つ上で重要とされている。ムスリムは通常40日を限度として、この毛の処理を行うことが預言者ムハンマドのスンナに従う行為とされている。
処理の目的:
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不快な臭いを防ぐ
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汗の溜まりやすい部位を清潔に保つ
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性的純潔と自己管理を象徴する
3. 腋毛の除去
腋毛もまた、汗腺が集中する部位であり、放置すると臭いやかゆみ、細菌の繁殖などを引き起こす可能性がある。そのため、ムスリムは定期的に腋毛を抜く、剃る、あるいは脱毛することで清潔を保つことが求められる。
4. 爪の手入れ
手足の爪を切り揃えることは、イスラームにおける個人衛生の基本とされている。爪の間には汚れやバクテリアが溜まりやすく、これを放置することは不衛生である。特に礼拝やクルアーンに触れる際の清潔さを確保するためにも、定期的な爪の手入れが必要である。
5. 髭を伸ばす
髭を自然に伸ばすことは、男性のフィトラの一部とされており、預言者ムハンマド自身もこの行為を推奨した。ただし、髭を整えること、無造作に放置しないこともまた重要である。
社会的・宗教的意義:
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男性としての威厳や成熟を象徴
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預言者のスンナへの敬意の表現
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個々人の信仰の深さを表す外的表現
6. 鼻を洗う
イスラームにおいては、1日に5回行う礼拝のたびにウドゥー(小浄)を行う。その一環として鼻の中に水を吸い入れて洗うことが奨励されている。これは健康的にも鼻腔内のほこりや花粉を除去する効果がある。
7. 口をすすぐ
鼻の洗浄と同様に、口の中をすすぐこともウドゥーに含まれている。口の中の清潔を保ち、虫歯や口臭予防にも効果がある。
8. 歯の清掃(ミスワーク)
歯の清掃には「ミスワーク」と呼ばれる木の枝(アラカ、またはナツメヤシの枝)が使用される。これは現代で言えば歯ブラシの役割を果たすものであり、預言者ムハンマドが礼拝の前や寝起きなどに頻繁に使用していたとされる。
科学的効果:
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天然の抗菌成分による虫歯予防
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歯茎のマッサージ効果
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歯の白さの維持
9. 浄身(陰部の洗浄)
排尿・排便の後に陰部を洗うことは、フィトラの一部であり、礼拝やウドゥーの条件でもある。イスラームでは清潔が信仰の一部であり、体の不浄をそのままにすることは忌避される。
10. 水での排泄後の洗浄(イスティンジャー)
陰部を洗うことに関連して、排泄後に単に紙で拭くだけでなく、水で洗い清めることが求められる。これによって礼拝やクルアーンの読誦に必要な清浄状態が保たれる。
現代社会における意義と実践
今日の都市生活においても、フィトラのスンナはその宗教的意義を超えて、健康管理、衛生管理、そして精神的な安定に寄与する。特に以下の点において、これらの実践は現代人にとっても有効である。
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健康的生活の促進: 爪の手入れや体毛の処理は、皮膚病の予防や身体の清潔を助ける。
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社会的マナーの向上: 口臭予防や体臭管理は、他者への配慮としても重要。
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自己管理能力の象徴: 定期的な手入れは、自己への責任感や規律を反映する。
文化的・宗教的側面の調和
一部の国や文化では、これらの慣習に対して異なる価値観が存在する。しかし、イスラームにおいては、フィトラのスンナは単なる身体的ケアに留まらず、魂と心の純粋さを反映する手段とされる。それゆえに、ムスリムにとってはこれらの行為は「アイデンティティの表出」であり、「預言者の道を歩む」神聖な実践なのである。
結論
フィトラのスンナは、外見の清潔さと精神の純粋さを両立させるための宗教的・自然的な慣習であり、ムスリムの生活全体を健やかに保つ柱である。現代の衛生科学とも整合性を持つこれらの実践は、単なる古来の宗教的義務ではなく、人間の本質と調和した行動様式としての価値を再評価すべきである。ムスリムが日々の生活においてこれらのスンナを実践することで、身体的な健康、社会的な礼節、そして精神的な清らかさを同時に維持することが可能となる。
主な参考文献
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Al-Bukhari, Sahih al-Bukhari, Kitab al-Libas
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Muslim ibn al-Hajjaj, Sahih Muslim, Kitab al-Taharah
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Yusuf al-Qaradawi『現代ムスリムのためのイスラーム法』
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Hamidullah, Muhammad. “Introduction to Islam”
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WHO「男性割礼と公衆衛生に関する報告書」2020年版
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日本ムスリム協会「ムスリム生活ガイドライン」