革命と戦争

第一次世界大戦の原因

第一次世界大戦の直接的な原因について議論する際には、単一の出来事だけで説明するのではなく、複雑に絡み合った政治的、軍事的、経済的背景を多角的に分析する必要がある。1914年に勃発したこの戦争は、20世紀初頭の国際秩序を根底から覆す契機となった。その出発点として広く知られているのは、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公の暗殺事件であるが、これを単なる引き金とするだけでは、この大規模戦争の本質に迫ることはできない。

サラエヴォ事件:直接的な火種

1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナントが、ボスニア・ヘルツェゴビナの州都サラエヴォでセルビア系青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された。この事件が第一次世界大戦の「直接的な原因」として歴史書ではしばしば取り上げられる。だが、なぜ一人の皇太子の死が世界規模の戦争に発展したのかについては、より深い国際関係の分析が必要である。

暗殺の背景には、オーストリア=ハンガリー帝国の南東ヨーロッパにおける膨張主義と、汎スラヴ主義を掲げるセルビアとの対立があった。オーストリアは、ボスニア・ヘルツェゴビナの併合(1908年)を通じて、スラヴ系民族の反感を買っていた。暗殺者プリンツィプは、民族主義的秘密結社「ブラック・ハンド」と関係を持っていたとされ、セルビア政府との関連も疑われた。

ウルティマトゥムと戦争の勃発

フランツ・フェルディナントの暗殺後、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに対して極めて厳しい最後通牒(ウルティマトゥム)を突きつけた。セルビアはこれに対し、ほとんどすべての要求を受け入れたが、一部の要求については主権の侵害として拒否した。これを受け、1914年7月28日、オーストリア=ハンガリーはセルビアに宣戦布告した。

この時点では、まだ地域紛争の範囲に収まっていたかもしれない。しかし、同盟関係と相互防衛条約の網の目が、戦争を拡大する要因となった。

同盟体制とエスカレーション

第一次世界大戦前夜のヨーロッパは、複雑な同盟網によって結びついていた。主要な枠組みは以下のとおりである:

  • 三国同盟:ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア(戦争中には中立化あるいは連合国側に転向)

  • 三国協商:フランス、ロシア、イギリス

オーストリアの宣戦布告を受けて、スラヴ系民族の保護を自認していたロシア帝国がセルビアを支援するために動員令を発動。これに対し、ロシアをけん制するためにドイツがロシアに宣戦布告し、その後フランスにも宣戦した。ドイツ軍がベルギーを通過してフランスに侵攻したことにより、中立国ベルギーを侵略されたことを理由にイギリスがドイツに宣戦布告し、戦争は欧州全土に広がっていった。

このように、サラエヴォ事件という一つの暗殺事件が、各国の同盟義務や戦略的計算によって瞬く間に大規模戦争へと変貌した。

帝国主義と軍拡競争の影響

第一次世界大戦の爆発的拡大は、ヨーロッパ列強による帝国主義的拡張と軍拡競争が背景にあった。19世紀末から20世紀初頭にかけて、列強は植民地争奪に奔走し、特にアフリカやアジアを舞台にした緊張が高まっていた。ドイツは、イギリスやフランスに遅れをとっていた植民地獲得を焦り、国際的な地位向上を狙って軍備を拡大していた。

以下の表に、列強の軍事支出と兵力の推移(1910年から1914年)を示す:

国名 軍事支出(1910年、百万ポンド) 軍事支出(1914年、百万ポンド) 兵力(1914年)
ドイツ 60 90 約430万人
フランス 50 75 約390万人
イギリス 45 60 約250万人
ロシア 55 80 約550万人
オーストリア 35 50 約300万人

この表からも明らかなように、主要国は大戦前に大規模な軍拡を行っていた。特にドイツとイギリスの海軍拡張競争(いわゆる「ドレッドノート競争」)は、両国間の不信を深める要因となっていた。

ナショナリズムと民族問題

ヨーロッパ各地では、19世紀後半からナショナリズムが高まり、特に多民族国家であるオーストリア=ハンガリー帝国やオスマン帝国では民族独立運動が活発化していた。バルカン半島では、セルビアやブルガリア、ギリシャなどがオスマン帝国からの独立を果たし、領土の拡大を目指して対立を深めていた。バルカン戦争(1912年・1913年)はこの対立をさらに深刻化させ、ヨーロッパの火薬庫と称される地域的緊張を形成した。

このような背景から、セルビアの民族主義者による暗殺は偶発的な出来事というよりは、長年にわたる政治的緊張の噴出として理解されるべきである。

結論:複合的な原因による戦争の爆発

第一次世界大戦の直接的な原因は、1914年6月のサラエヴォ事件であるが、その根底には以下の要素が重層的に存在していた:

  1. 同盟体制の硬直化と相互防衛義務の自動的発動

  2. 帝国主義による国際的緊張の蓄積

  3. 軍拡競争と軍事戦略の相互けん制

  4. バルカン地域における民族対立とナショナリズムの台頭

  5. 各国指導部の外交的失敗と危機管理能力の欠如

歴史学者フリッツ・フィッシャー(Fritz Fischer)は、ドイツ帝国の拡張主義的外交政策こそが戦争への準備であったとする「ドイツ責任論」を提唱し、戦後の歴史学に大きな影響を与えた。一方で、クリストファー・クラーク(Christopher Clark)は『夢遊病者たち』において、各国があたかも夢遊病者のように戦争へと突き進んでいったと論じており、どの国も単独で戦争の責任を負うべきではないとした。

したがって、第一次世界大戦の「直接的原因」とされるサラエヴォ事件は、その瞬間に発火した導火線であって、火薬庫そのものは19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパ全体に存在していたのである。


参考文献:

  • Clark, Christopher. The Sleepwalkers: How Europe Went to War in 1914. Penguin Books, 2012.

  • Fischer, Fritz. Germany’s Aims in the First World War. Norton & Company, 1967.

  • Joll, James & Martel, Gordon. The Origins of the First World War. Routledge, 2007.

  • Keegan, John. The First World War. Vintage Books, 2000.

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