第二次世界大戦の勃発は、20世紀最大の歴史的転換点の一つであり、複雑な政治的、経済的、社会的要因が絡み合って引き起こされたものである。この戦争は1939年9月1日に公式に始まり、1945年9月2日の日本の降伏によって終結したが、その背景には第一次世界大戦の後遺症、国際連盟の機能不全、世界恐慌の影響、そしてファシズムの台頭など、複数の要因が存在していた。本稿では、第二次世界大戦がどのように始まったのかを、原因から勃発の過程に至るまで、政治的・経済的・軍事的な視点を交えて徹底的に分析する。
ヴェルサイユ条約とドイツの屈辱
1919年に第一次世界大戦の講和条約として締結されたヴェルサイユ条約は、ドイツにとって屈辱的な内容であった。条約では、ドイツは戦争責任を一方的に負わされ、莫大な賠償金を課され、領土を削減され、軍備も大幅に制限された。これにより、ドイツ国内では強い反感と復讐心が育ち、政治的混乱と経済的疲弊が進んだ。この不満は、後にナチス政権の台頭とヒトラーの支持へと繋がる重要な要因となった。

世界恐慌と極端な政治思想の台頭
1929年にアメリカから始まった世界恐慌は、全世界に波及し、特に戦後復興の遅れたドイツ、イタリア、日本などに深刻な影響を与えた。大量失業と経済崩壊により、これらの国々では民主主義に対する信頼が失われ、代わりに強力な指導者と国家主義的政策を掲げる極右勢力が台頭した。
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ドイツではアドルフ・ヒトラー率いるナチ党が1933年に政権を掌握。
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イタリアではムッソリーニのファシスト党が既に1922年から権力を握っていた。
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日本では軍部が政治の実権を次第に握り、満州事変(1931年)を契機に帝国主義的膨張路線を強めていった。
これらの政権は、経済の再建と国威発揚のために積極的な軍事拡張政策を推進し、世界の緊張を高めた。
ヒトラーの台頭と再軍備、ラインラント進駐
1933年に首相に就任したヒトラーは、すぐにヴェルサイユ条約の破棄に取り組んだ。彼は国民の支持を背景に、秘密裏に軍備を増強し、1935年には徴兵制を復活させた。そして1936年には非武装地帯とされていたラインラントにドイツ軍を進駐させる。フランスやイギリスはこれに対して有効な対抗措置をとらず、事実上の黙認を与えた。この弱腰の対応が、ヒトラーにさらなる冒険主義を許す結果となった。
スペイン内戦と枢軸国の結束
1936年から1939年にかけてスペイン内戦が勃発すると、ドイツとイタリアは反共和主義の立場からフランコ将軍を支援し、ソ連は共和派を支援した。この戦争はイデオロギーの代理戦争となると同時に、ドイツとイタリアの軍事協力を深める場ともなった。1936年には両国が「ベルリン=ローマ枢軸」を形成し、後に日本も加わって日独伊三国同盟が結ばれる土台が築かれた。
オーストリア併合とチェコスロバキア解体
1938年3月、ドイツは「アンシュルス」と呼ばれる政策によりオーストリアを併合する。これにより、ドイツは大幅に領土と人的資源を拡大した。次にターゲットとなったのがチェコスロバキアのズデーテン地方であった。ここにはドイツ系住民が多数居住しており、ヒトラーは彼らの「保護」を口実に併合を主張した。
1938年9月のミュンヘン会談では、イギリスのチェンバレン首相とフランスのダラディエ首相が宥和政策を採り、ズデーテン地方のドイツ編入を承認する代わりにこれ以上の領土拡張をしないというヒトラーの約束を得た(いわゆる「ミュンヘン合意」)。しかし、この合意は1939年3月のチェコスロバキア全土占領によって反故にされ、英仏の信頼は完全に裏切られた。
独ソ不可侵条約とポーランド侵攻
ヒトラーの次なる標的はポーランドであった。ダンツィヒ回廊とポーランド回廊をめぐる領土問題は、ドイツの東方拡張主義(レーベンスラウム)の核心であった。しかし、ポーランドには英仏が防衛を約束していたため、ドイツは戦争のリスクを回避するために、ソビエト連邦との関係改善に動いた。
1939年8月23日、ドイツとソ連は「独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)」を締結。この条約には秘密議定書が含まれており、ポーランドを両国で分割する取り決めがなされていた。ヒトラーはこの合意により東方の安全を確保し、全面的な戦争に踏み切る決断を下す。
1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻した(「白作戦」)。これに対し、イギリスとフランスは9月3日にドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発した。
戦争拡大の初動:奇妙な戦争とソ連の侵攻
戦争が始まったものの、西部戦線ではすぐに本格的な戦闘は起きず、半年以上にわたって両陣営が睨み合う状況が続いた(いわゆる「奇妙な戦争」)。一方、ソ連は独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、1939年9月17日にポーランド東部に侵攻し、さらにバルト三国やフィンランドにも攻勢をかけた(冬戦争)。これにより、ソ連もまた戦争の当事国となり、ヨーロッパ全体がきな臭くなっていった。
結論:戦争への道を開いた多層的要因
第二次世界大戦の開戦は、単一の出来事ではなく、20年間にわたる国際社会の構造的失敗、指導者の判断ミス、イデオロギーの対立、そして経済的困窮が絡み合った結果である。特に次の要因が重層的に重なったことが決定的だった:
主な要因 | 内容 |
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ヴェルサイユ条約 | ドイツに屈辱と経済的負担を強いたことで反発を招いた |
世界恐慌 | 経済的混乱が極端な思想への支持を後押しした |
ナチスの台頭 | 独裁と拡張主義が戦争への道を切り開いた |
宥和政策 | 英仏の消極的対応がヒトラーを勢いづかせた |
独ソ不可侵条約 | ドイツにとっての東方安全保障となり、開戦を可能にした |
このように、第二次世界大戦は避けられない運命ではなく、当時の国際社会が選び取った政策の積み重ねの帰結だったと言える。
参考文献
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Evans, R. J. (2003). The Coming of the Third Reich. Penguin Books.
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Shirer, W. L. (1960). The Rise and Fall of the Third Reich. Simon & Schuster.
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Mazower, M. (1998). Dark Continent: Europe’s Twentieth Century. Vintage.
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橋川文三『ヒトラーとナチズム』中公新書
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児島襄『第二次世界大戦 ヨーロッパ戦線』文藝春秋
日本の読者の皆様が、歴史的事実と国際関係のダイナミズムを深く理解し、同様の悲劇を二度と繰り返さないための学びとなることを願っている。