質的研究(Qualitative Research)は、社会的現象や人間の行動、経験、価値観、信念、社会的構造といった複雑な現象を深く理解するための方法論である。量的研究が数値データと統計分析を通じて一般化可能な傾向を明らかにしようとするのに対して、質的研究は文脈の中での意味やプロセス、主観的体験に焦点を当てる。ここでは、質的研究の方法論、データ収集と分析の技法、信頼性と妥当性の確保、研究倫理、そして近年の発展について詳しく論じていく。
質的研究の本質と特徴
質的研究は、主に以下のような特徴を持っている。

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自然的設定での研究:研究者は、参加者が自然に行動している場に入り込み、現象を観察・記述する。
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意味の重視:人々がどのように経験し、どのように意味づけているかに注目する。
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柔軟な設計:研究計画は、探索的・反復的に進化し、現場での発見に応じて修正される。
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研究者の関与:研究者自身がデータの一部であり、彼・彼女の視点が研究に影響を与えることを自覚する。
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厚みのある記述(Thick Description):文脈を含めた詳細な描写を通じて、読者に深い理解を提供する。
主要な質的研究のアプローチ
アプローチ名 | 概要 | 主な使用分野 |
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現象学的研究 | 人間の主観的経験の本質を記述しようとする | 看護学、教育学、心理学 |
グラウンデッド・セオリー | データから理論を生成する帰納的アプローチ | 社会学、経営学、政策研究 |
ナラティブ研究 | 人々の語りや物語から人生経験の構造や意味を分析 | 教育、社会福祉、文化研究 |
エスノグラフィー | 文化や社会集団の生活様式を参与観察により描写する | 文化人類学、社会学、教育学 |
ケーススタディ | 特定の事例(個人、団体、現象など)を多角的に詳細に調査する | 法学、医学、経営学 |
ディスコース分析 | 言語の使用を通じて社会構造や権力関係を読み解く | 言語学、メディア研究、政治学 |
データ収集技法
質的研究では、多様なデータ収集法が用いられる。最も基本的かつ頻繁に用いられる方法は以下の通りである。
1. インタビュー
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構造化インタビュー:予め決められた質問に沿って行う。
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半構造化インタビュー:基本的な質問項目はあるが、参加者の応答に応じて柔軟に展開。
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非構造化インタビュー:自由な会話形式で、参加者が自由に語ることを重視する。
2. 参与観察
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観察者が研究現場に参加し、行動を観察・記録する方法。
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エスノグラフィーにおいて中核を成す。
3. フォーカスグループ
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少人数のグループ(4〜10名)でテーマに基づいた話し合いを行うことで、集団的意見や動態を把握する。
4. 文書・映像・写真資料の分析
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自伝、日記、新聞記事、ポスター、映像、写真など、多様な質的資料を対象にする。
データ分析の手法
質的データ分析は、以下のような技法を用いて意味を抽出し、構造化する。
コーディング(Coding)
データの断片(フレーズや文)に意味を与え、カテゴリー化する。グラウンデッド・セオリーでは、「オープン・コーディング」「アクシャル・コーディング」「セレクティブ・コーディング」という段階的分析を行う。
テーマ分析(Thematic Analysis)
繰り返されるパターンやテーマを抽出し、データの意味構造を明らかにする。
内容分析(Content Analysis)
文書やテキストに現れる単語や表現の頻度や分布を分析し、意味の傾向を読み解く。
ナラティブ分析
語られた物語の構造や語り口に注目し、人生経験の意味づけの過程を明らかにする。
信頼性と妥当性の確保
質的研究では、信頼性(reliability)や妥当性(validity)という概念は量的研究とは異なる形で捉えられる。ここでは、「信頼性」を「信憑性(credibility)」、「妥当性」を「転移可能性(transferability)」や「確認可能性(confirmability)」といった概念で捉える。
評価基準 | 説明 |
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信憑性(Credibility) | データの意味と解釈が参加者の経験と一致しているか |
転移可能性(Transferability) | 他の状況に適用可能な知見を提供しているか |
依存性(Dependability) | 研究過程が明確で追跡可能であるか |
確認可能性(Confirmability) | 研究者の偏見が排除されており、データに基づいた解釈であるか |
これらの基準を確保するためには、以下のような実践が重要である。
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トライアングレーション(複数のデータソース・方法・研究者を用いる)
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メンバーチェック(参加者に解釈を確認してもらう)
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詳細なフィールドノートと記録の保持
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研究者の立場性(reflexivity)の記述
研究倫理の重要性
質的研究では、研究対象が人間であるため、倫理的配慮が極めて重要である。以下に基本的な倫理的要件を挙げる。
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インフォームド・コンセント:研究の目的、方法、リスク、自由意思を説明し、参加者の同意を得る。
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匿名性の確保:個人が特定されないように記録・報告を工夫する。
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機密保持:データの保管と共有方法に厳密な管理を行う。
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参加者の尊重:研究中も参加者の感情や権利を常に尊重する。
特に日本社会では、他者の内面や個人情報に踏み込むことが文化的に敏感であるため、研究者の態度と丁寧な配慮が求められる。
コンピューター支援による質的分析(CAQDAS)
近年では、質的データの量と複雑性に対応するため、以下のようなCAQDAS(Computer-Assisted Qualitative Data Analysis Software)が活用されている。
ソフトウェア名 | 特徴 |
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NVivo | テキスト、画像、音声、ビデオに対応。視覚的な分析機能が豊富。 |
ATLAS.ti | 理論構築に適した柔軟なコーディングが可能。 |
MAXQDA | 統計データとの統合分析も |