身体に刻まれる記憶:科学的事実としての「身体の記憶」
人間の記憶といえば、一般的には脳内に保存される知識や経験を指すが、近年の神経科学や心理学、そして身体療法の分野では、「身体にも記憶が存在する」という仮説が強く支持されつつある。これは単なる比喩や感情的表現ではなく、実際に筋肉、神経系、内臓、自律神経系、そして細胞レベルで、過去の経験が物理的・化学的に「記録」されることが研究によって示されている。これを「身体記憶(body memory)」と呼び、PTSD(心的外傷後ストレス障害)や慢性疼痛、自己感覚の混乱などに深く関与していることが分かってきた。
本記事では、身体記憶の科学的基盤、関連する脳-身体ネットワーク、トラウマとの関係、そして治療への応用までを包括的に取り上げる。
神経科学における身体記憶の位置づけ
脳は神経系の中心ではあるが、記憶のプロセスは脳内にとどまらない。実際に、記憶の形成と再現には脳幹、小脳、内臓、末梢神経系が協調して働いている。たとえば、特定のトラウマ体験があった際、その出来事の映像や音だけでなく、同時に生じた筋肉の緊張、呼吸の乱れ、心拍の変化、腸の動きなどが自律神経系を通じて「記録」される。
このとき、感情的記憶をつかさどる「扁桃体」と、身体感覚をマッピングする「島皮質」、さらに運動制御と感覚処理を担う「体性感覚野」が連携する。身体的な反応が情動記憶と強く結びつくことで、「感覚」としての記憶が身体に残る。
「身体に閉じ込められたトラウマ」という概念
ベッセル・ヴァン・デア・コーク博士の研究は、この分野において革命的な役割を果たした。彼の著書『身体は語る(The Body Keeps the Score)』では、トラウマがどのようにして脳だけでなく身体に刻み込まれ、それがその後の人生に影響を与え続けるかを詳細に解説している。
トラウマを体験した人々は、しばしばその記憶を言葉で語ることができないが、特定の身体感覚、姿勢、香り、音などによって突然過去の恐怖がフラッシュバックのように蘇ることがある。これは記憶が「語られた記憶(explicit memory)」ではなく、「手続き記憶(procedural memory)」や「情動記憶(emotional memory)」として身体に保存されている証左である。
筋肉と神経系に蓄積される記憶
筋肉の緊張や特定の姿勢は、過去の経験に由来することがある。たとえば、虐待を受けていた人が無意識に肩をすぼめたり、顎を固く閉じたりする姿勢をとるのは、その時の「防衛反応」が身体に残っているからである。これを「筋肉記憶」と呼ぶこともあり、神経筋接合部において、長期的な神経パターンが固定化されていることが原因とされる。
また、交感神経が常に高ぶった状態にあると、心拍数や呼吸のパターンにも変化が生じ、慢性的な身体不調へとつながる。このような状態は、いわば「過去の身体的記憶」が現在の生理機能を支配している状況と言える。
心理療法と身体療法の統合的アプローチ
従来の会話中心の心理療法だけでは、身体に蓄積された記憶へのアクセスは困難である。そのため、以下のような身体療法が注目されている。
ソマティック・エクスペリエンシング(Somatic Experiencing)
ピーター・レヴィン博士によって開発されたこの療法では、クライアントが身体感覚に意識を向けながら、安全な環境でトラウマを再処理することが目指される。過去の恐怖や固着した身体反応に対し、身体を通じて「完了反応」を導くことで、記憶を解放する。
フェルデンクライス・メソッド
動きと意識を用いて身体感覚を再教育する方法。過去に刻まれた動作の癖や緊張パターンを解放し、新たな身体の使い方を学ぶことで、神経系の再配線が促される。
トラウマ・リリース・エクササイズ(TRE)
深部の筋肉(大腰筋など)に震えを引き起こすことで、動物が危機後に行う自然な「解放反応」を模倣し、身体に残ったストレスを解消する。
| 身体療法の種類 | 目的 | 主な技術 | 科学的根拠 |
|---|---|---|---|
| ソマティック・エクスペリエンシング | トラウマの身体的記憶の解放 | 感覚追跡、安全な再体験 | 神経生理学に基づく臨床研究 |
| フェルデンクライス・メソッド | 身体動作の再教育 | 意識的な動きと注意 | 神経可塑性を活用 |
| TRE | 筋肉の震えによるストレス解放 | 身体の自然反応誘発 | 自律神経系の安定化に効果 |
細胞レベルの記憶:エピジェネティクスと身体記憶
記憶は脳や筋肉だけにとどまらない。近年のエピジェネティクスの研究では、トラウマや強い感情的経験が、DNAのメチル化やヒストン修飾といった分子レベルでの変化を引き起こすことがわかってきた。つまり、特定の遺伝子が「オン」または「オフ」になることで、ストレス応答や免疫系の働きに影響を及ぼす。
このメカニズムは、過去の経験が遺伝子発現に影響し、慢性炎症や精神疾患の素因となる可能性を示唆している。さらに重要なのは、これらの変化が次世代に受け継がれる「世代間トラウマ」として作用することもある点である。
身体記憶と現代医療への示唆
現代医療では、慢性疼痛や自律神経失調症、機能性障害(たとえば過敏性腸症候群や線維筋痛症)などの症状に対し、身体記憶の概念が新たな治療戦略を提供している。従来は心理的要因と身体的要因が分断されていたが、これからの治療は「身体-心-神経系」を一体のものとして扱う必要がある。
例えば、慢性腰痛に対してはMRIやX線では異常が見つからなくても、過去のトラウマが筋肉の緊張パターンを引き起こしている可能性がある。ここに身体療法を取り入れることで、痛みの根本的な解消が期待できる。
結語:記憶は「語られる」だけでなく「感じられる」
記憶は単なる言語的情報ではなく、身体の中で「感じられ」、時に無意識的に表現されるものである。トラウマや感情の記憶が筋肉、神経、呼吸、姿勢、内臓に影響を与え、日々の生活に無自覚に作用する現象は、決して例外ではなく、科学的にも裏付けられつつある。
この知見は、私たちの健康と自己理解に大きな影響をもたらす。症状を単なる「身体の問題」として見るのではなく、そこに宿る「記憶」や「意味」を見出すことこそが、真の癒しと成長につながる。
参考文献
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Van der Kolk, B. (2014). The Body Keeps the Score: Brain, Mind, and Body in the Healing of Trauma. Viking.
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Levine, P. (1997). Waking the Tiger: Healing Trauma. North Atlantic Books.
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Rothschild, B. (2000). The Body Remembers: The Psychophysiology of Trauma and Trauma Treatment. W. W. Norton & Company.
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Sapolsky, R. M. (2004). Why Zebras Don’t Get Ulcers. Holt Paperbacks.
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Porges, S. W. (2011). The Polyvagal Theory: Neurophysiological Foundations of Emotions, Attachment, Communication, and Self-regulation. Norton.
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Schore, A. N. (2003). Affect Regulation and the Repair of the Self. W. W. Norton & Company.
日本の読者におかれては、身体の声に耳を傾け、心だけでなく身体に刻まれた記憶にも敬意を払いながら、自己の深層と向き合う機会としてこの知識を活かしていただきたい。記憶は頭の中だけでなく、筋肉の中、呼吸のリズムの中、心拍の鼓動の中に確かに生きている。
