大腸疾患

過敏性腸症候群の全知識

過敏性腸症候群(IBS:Irritable Bowel Syndrome)は、消化管の機能異常によって引き起こされる慢性的な疾患であり、腸の構造的異常を伴わずに多様な消化器症状を呈することが特徴である。本症候群は、世界中で数億人が罹患していると推定され、日本においても生活の質(QOL)を著しく低下させる重要な健康問題の一つとされている。

症状の多様性と分類

過敏性腸症候群の主な症状には、腹痛、腹部不快感、腹部膨満感、下痢、便秘、またはその交互出現が挙げられる。これらの症状は、一般的に排便と関連しており、排便後に症状が軽減する傾向がある。IBSは主に以下の4つのタイプに分類される。

分類 主な症状
便秘型(IBS-C) 排便困難、硬便、排便回数の減少
下痢型(IBS-D) 頻回の水様便、緊急性のある排便
混合型(IBS-M) 下痢と便秘が交互に現れる
分類不能型(IBS-U) 上記に明確に分類できない症状を呈する

このように、IBSは多様な症状を呈するため、患者個々に応じた診断と治療戦略が必要となる。

発症のメカニズム

IBSの正確な原因は未だ完全には解明されていないが、複数の要因が複雑に絡み合って発症すると考えられている。その主なメカニズムは以下の通りである。

  1. 腸管運動の異常

    IBS患者では、腸の運動が亢進または低下しており、これが下痢や便秘の症状と関連している。たとえば、下痢型では腸管蠕動が過剰であり、便が十分に形成されずに排泄される。

  2. 内臓知覚過敏

    一部の患者では、腸の膨張や圧力に対して過剰な痛みを感じる傾向があり、これを内臓知覚過敏と呼ぶ。神経の感受性が高まっており、通常であれば感じない刺激でも痛みや不快感として認識される。

  3. 脳‐腸相関の障害

    脳と腸の相互作用、すなわち脳‐腸相関がIBSの中核的な病態とされる。ストレスや情動の変化が腸の運動や分泌、感覚に影響を与え、症状を悪化させる。

  4. 腸内細菌叢の乱れ(ディスバイオーシス)

    腸内に存在する微生物群集のバランスが崩れることで、ガスの産生や炎症反応が促進され、腹部膨満や不快感の原因となる。

  5. 小腸内細菌異常増殖(SIBO)

    本来ほとんど菌が存在しない小腸において、細菌が過剰に増殖することで症状が引き起こされる。最近の研究では、IBS患者の中にはSIBOを合併している割合が高いことが報告されている。

  6. 感染後IBS(PI-IBS)

    腸管感染症をきっかけに発症するタイプであり、感染による粘膜障害と免疫応答が持続し、慢性症状に移行するとされる。

診断の方法

IBSの診断は、除外診断が基本となる。すなわち、炎症性腸疾患(クローン病や潰瘍性大腸炎)、大腸がん、乳糖不耐症などの他疾患を除外したうえで、臨床症状と基準をもとに診断される。最も広く用いられている診断基準は「ローマIV基準」である。

ローマIV基準の要点

  • 過去3か月以内に、月に少なくとも1回の腹痛を伴い、以下の2項目以上を満たす。

    1. 排便と関連している

    2. 排便頻度の変化がある

    3. 便形状(硬さ)の変化がある

また、血液検査、便潜血検査、大腸内視鏡などによって他の疾患を除外することが重要である。

治療戦略

IBSの治療は、症状のタイプと重症度、患者の生活背景に応じて多角的にアプローチされる。以下に代表的な治療法を示す。

食事療法

食事内容が症状に強く影響を与えることがあるため、食事指導はIBS管理において不可欠である。

  1. FODMAP制限食

    FODMAPとは、発酵性の短鎖炭水化物類(例:フルクトース、乳糖、果糖、ガラクタンなど)であり、これらは腸内で発酵してガスや水分を増やし、腹部膨満や下痢の原因となる。FODMAP制限食を試すことで、症状の改善が見込まれる。

  2. 食物繊維の調整

    便秘型では水溶性食物繊維(オート麦、サイリウムなど)が有用であり、下痢型では過剰な不溶性繊維(玄米、野菜繊維など)は避けた方がよいとされる。

薬物療法

症状に応じて以下の薬剤が使用される。

症状 使用薬剤
便秘 下剤、腸管刺激薬 ルビプロストン、センナ
下痢 止瀉薬 ロペラミド、ラモセトロン
腹痛 抗コリン薬、抗うつ薬 メペンゾラート、アミトリプチリン
腸内ガス 消泡剤、整腸剤 ジメチルポリシロキサン、ビフィズス菌

特に、SSRIや三環系抗うつ薬は脳‐腸相関の改善と痛覚過敏の緩和に有効であるとされている。

心理療法と生活習慣の改善

ストレス管理はIBSにおいて重要な役割を果たす。以下の介入が推奨される。

  • 認知行動療法(CBT)

  • マインドフルネス瞑想

  • 規則正しい睡眠と運動習慣

  • 日記による症状とトリガーの可視化

予後と生活の質

IBSは生命を脅かす疾患ではないが、長期にわたる慢性的な症状が精神的ストレスや社会生活への支障を招き、うつや不安障害との関連も高い。適切な診断と継続的なマネジメントによって、症状は大きく軽減し、生活の質を改善することが可能である。

日本における研究と取り組み

日本では、過敏性腸症候群の啓発と診療ガイドラインの整備が進んでおり、日本消化器病学会などの学会によってエビデンスに基づく診療が推奨されている。また、腸内細菌叢解析やプロバイオティクスの効果検証など、最新の研究が精力的に行われている。

結論

過敏性腸症候群は、その症状の多様性、発症機序の複雑さ、患者個々の背景によってアプローチを柔軟にする必要がある疾患である。診断の遅れや誤診によって長年苦しむ患者も少なくないが、科学的根拠に基づく食事療法、薬物療法、心理的アプローチを組み合わせることで、症状の大幅な軽減が可能である。今後も個別化医療や腸内環境に関する研究が進むことで、より効果的な治療戦略が確立されることが期待される。


参考文献

  1. 日本消化器病学会. 過敏性腸症候群診療ガイドライン 2020. 南江堂.

  2. Lacy BE, Mearin F, Chang L, et al. Bowel disorders. Gastroenterology. 2016;150(6):1393–1407.

  3. Ford AC, Lacy BE, Talley NJ. Irritable bowel syndrome. BMJ. 2020;370:m3036.

  4. Ohman L, Simrén M. Pathogenesis of IBS: role of inflammation, immunity and neuroimmune interactions. Nat Rev Gastroenterol Hepatol. 2010;7(3):163–173.

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