過敏性腸症候群(IBS:Irritable Bowel Syndrome)は、腸に構造的な異常や炎症、感染が認められないにもかかわらず、慢性的な腹痛や腹部不快感、排便異常(下痢、便秘、またはその両方)などの症状が繰り返される疾患である。日本人を含む世界中の多くの人々に影響を及ぼし、QOL(生活の質)を大きく低下させるにもかかわらず、診断や治療が十分に行われていないケースが多い。この記事では、過敏性腸症候群の病態、分類、症状、原因、診断方法、治療法、予防策、そして生活習慣の改善に至るまで、科学的かつ包括的に解説する。
過敏性腸症候群の病態と分類
過敏性腸症候群は、主に大腸の運動機能や感受性が異常をきたすことで発症すると考えられているが、正確なメカニズムは未だ完全には解明されていない。この疾患は、以下の4つの主要なサブタイプに分類される:

分類 | 特徴的な排便パターン |
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IBS-D(下痢型) | 主に水様便や軟便が繰り返される |
IBS-C(便秘型) | 頻繁な便秘と硬便がみられる |
IBS-M(混合型) | 下痢と便秘が交互に現れる |
IBS-U(分類不能型) | 明確なパターンが認められない |
この分類は診断と治療の方向性を決定するうえで極めて重要である。
主な症状
過敏性腸症候群の症状は多岐にわたり、身体的な苦痛だけでなく、精神的・社会的な苦悩も伴う。以下に主な症状を示す:
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腹痛・腹部不快感
典型的には、排便によって軽減される腹痛が特徴である。痛みの部位や強さは個人差がある。 -
排便習慣の変化
慢性的な便秘や下痢、あるいはその両方が交互に生じる。排便回数、便の形状や性状にも変化がみられる。 -
腹部膨満感(ガスだまり)
お腹が張って苦しい、頻繁にガスが溜まるといった症状が多く報告されている。 -
粘液便
とくに下痢型でよくみられる粘液を伴う便が排出されることがある。 -
疲労感・集中力の低下
慢性的な不快感が日常生活に影響を及ぼし、うつ傾向や不安障害と合併することもある。
原因と誘因
過敏性腸症候群の発症メカニズムは多因子的であり、単一の原因で説明することは困難である。以下の要因が複雑に関与しているとされる:
要因 | 説明 |
---|---|
腸の運動異常 | 消化管の蠕動運動が過剰または低下することで、便通異常や腹痛を引き起こす。 |
内臓過敏性 | 腸が過度に刺激に反応し、痛みや不快感を感じやすくなる。 |
腸内細菌叢の変化 | 有益な腸内細菌の減少やバランスの崩れが症状を悪化させる。 |
精神的ストレス | 自律神経系が乱れることで腸の働きに影響し、ストレスが症状を増悪させる。 |
食事・生活習慣 | 特定の食品(乳製品、脂質、カフェイン、人工甘味料など)がトリガーになることがある。 |
感染後IBS | 急性胃腸炎の後にIBSが発症するケースもあり、細菌性やウイルス性の影響が示唆されている。 |
診断方法
IBSの診断は、器質的な疾患(例えば潰瘍性大腸炎や大腸がん)を除外することを前提とし、主に問診と診察によって行われる。現在、国際的には「ローマIV基準」が広く用いられている。
ローマIV基準(簡略版):
過去3か月間にわたって、少なくとも1週間に1回以上の腹痛があり、以下の2項目以上が該当する:
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排便と関連している
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排便頻度の変化を伴う
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便形状の変化を伴う
これに加え、血便や体重減少、夜間の腹痛といった「警告症状(アラームサイン)」がないことも重要である。必要に応じて以下の検査が行われる:
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血液検査(貧血、炎症、感染の有無)
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大腸内視鏡検査(器質的疾患の除外)
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腹部エコー
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便培養検査
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便中カルプロテクチン(炎症性腸疾患との鑑別)
治療法
IBSの治療には、薬物療法と非薬物療法(食事・心理療法など)が含まれる。以下に主な治療アプローチを示す。
1. 薬物療法
分類 | 使用薬剤 | 効果 |
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鎮痙薬 | ブチルスコポラミン、メペンゾラートなど | 腸のけいれんを抑える |
下痢止め薬 | ロペラミドなど | 下痢の症状を緩和 |
便秘治療薬 | ルビプロストン、マグネシウム剤など | 腸管の水分分泌促進、蠕動運動の改善 |
抗うつ薬 | 三環系抗うつ薬、SSRIなど | 痛覚過敏の軽減、気分の安定化 |
腸内細菌調整剤 | ビフィズス菌、乳酸菌製剤 | 腸内フローラの改善 |
2. 食事療法(低FODMAP食)
FODMAP(発酵性糖質:オリゴ糖、二糖類、単糖類、ポリオール)は、腸内でガスを発生させやすく、IBSの症状を引き起こしやすい。これらを一時的に制限する「低FODMAP食」が有効とされている。
避けるべき食品 | 代替食品 |
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玉ねぎ、にんにく、キャベツ | もやし、なす、きゅうり |
乳製品(牛乳、ヨーグルト) | ラクトースフリー乳製品、豆乳 |
小麦製品 | グルテンフリーのパンやパスタ |
りんご、洋梨 | バナナ、いちご、みかん |
人工甘味料(ソルビトール等) | 天然甘味料(ステビア等) |
心理療法とストレス管理
IBSの症状はストレスと密接に関連しているため、心身療法が極めて有効である。以下が代表的な方法である:
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認知行動療法(CBT):不安や過剰な思い込みの修正
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マインドフルネス瞑想:腸と脳の連携を整える
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自律訓練法:ストレス応答の制御
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睡眠の質の向上:規則正しい生活リズムの確立
予後と生活習慣の改善
IBSは命に関わる病気ではないが、慢性的に繰り返すため、生活の質を保つための工夫が必要である。以下の生活習慣が症状の予防および緩和に役立つ:
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規則正しい食生活と適度な運動習慣
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食事日記をつけてトリガーとなる食品の特定
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十分な睡眠とリラックス時間の確保
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アルコール、カフェインの摂取制限
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水分補給(特に便秘型)
おわりに
過敏性腸症候群は、消化管における機能的異常により多様な症状を呈し、その発症には身体的要因のみならず、精神的・社会的要因も深く関与している。完全な治癒が困難な場合もあるが、個々の症状や生活スタイルに合わせた包括的な治療アプローチによって、症状のコントロールと生活の質の向上は十分に可能である。近年では腸内環境や脳腸相関に注目が集まっており、今後の研究の進展がIBSの理解と治療に大きな貢献をもたらすことが期待されている。
参考文献:
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日本消化器病学会ガイドライン「過敏性腸症候群の診療ガイドライン 2020」
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Longstreth GF, et al. Functional Bowel Disorders. Gastroenterology. 2006
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Chey WD, et al. Irritable bowel syndrome: a clinical review. JAMA. 2015
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Ford AC, et al. Efficacy of dietary interventions in IBS: a systematic review and meta-analysis. BMJ. 2014
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鈴木康夫編『腸とこころの関係学』医歯薬出版株式会社, 2021