チンギス・ハンの法典(ジャサク、ジャサ、またはヤサ)は、13世紀初頭にモンゴル帝国を築いたチンギス・ハン(1162年頃 – 1227年)によって制定されたとされる独特の法律体系である。この法典は、単なる法律の枠を超え、モンゴル社会の軍事、政治、宗教、日常生活の規範全体を包括する広範な規律であり、遊牧民社会を広大な帝国へと統合するための強力な統治手段であった。
ジャサクの起源と背景
ジャサク(YassaまたはYasaq)は、正確な文書が現存しておらず、後世の記録や歴史家の著述から再構築されているものである。モンゴル語の「ジャサク」は「命令」や「法令」を意味し、チンギス・ハンが下した法的命令、布告、裁定などを指す集合的な概念である。これらは書かれた形式ではなく、主に口頭で伝達され、後にチンギス・ハンの息子たちや孫たちによって再編集され、帝国の支配地域全体に適用された。
ジャサクの基本精神は、秩序、忠誠、規律、団結、そして効率的な支配である。モンゴル帝国の広範な領土において、異なる文化や宗教、民族をまとめ上げるために、単一かつ統一された法体系が必要であった。これがジャサクであり、その法的性質は柔軟性を持ちながらも厳格で、違反に対しては即座かつ苛烈な罰が科せられた。
ジャサクの主な内容と特徴
チンギス・ハンの法典は多岐にわたり、以下のような分野に及んでいたとされる。
1. 軍事規律と兵制
モンゴル帝国は軍事力に依存する国家であり、軍規は最も厳格な部門であった。ジャサクにおいては以下のような軍事規律が含まれていた。
-
上官の命令に従わない者は死刑。
-
逃亡兵や戦闘を拒否した者も死刑。
-
捕虜や戦利品の分配は厳密に管理され、私的に持ち去った場合は死罪。
-
10人単位の「アルバン」、100人単位の「ズーン」、1000人単位の「ミンガン」、1万の「トゥメン」という軍組織制度を設け、相互監視を強化。
-
軍の機動性を確保するため、兵士は複数の馬を保持し、共有財産の概念を徹底。
2. 家族制度と男女関係
-
一夫多妻制を容認。ただし、正妻と側室の間には明確な序列があり、正妻の子が後継者となる。
-
結婚相手の選定には氏族間の同意が必要であり、政略結婚が奨励された。
-
未亡人は亡夫の兄弟と再婚する「レビレート婚」が義務とされた。
-
近親婚は禁じられていた。
3. 宗教の寛容と管理
チンギス・ハンは宗教の多様性を尊重し、仏教、キリスト教、イスラム教、道教、シャーマニズムなど、信仰の自由を認めたが、宗教指導者にも国家への忠誠を義務付けた。
-
宗教者に対しては課税を免除し、保護対象とした。
-
宗教的儀式や信条に干渉しないが、政治的権威に挑戦した宗教勢力は厳しく制裁。
-
シャーマン的儀式は軍事・国家儀式の中核をなすこともあった。
4. 経済活動と財産権
-
商人、特にキャラバンの保護を強化し、モンゴル支配下の「パクス・モンゴリカ(モンゴルの平和)」によって交易の安全が保障された。
-
商人の財産に対する略奪を禁止。
-
納税制度は単純明快で、公正な徴税を旨とした。
-
牛や馬、ラクダといった家畜の盗難は死刑。
5. 裁判制度と刑罰
-
重大な犯罪(殺人、姦通、裏切り、盗賊行為、上官への不服従など)は即死刑とされた。
-
軽微な罪についても鞭打ちや罰金が科された。
-
再犯に対しては容赦がなく、累犯は厳罰。
-
判決は迅速に下され、手続きの煩雑さを排した。
-
虐待や冤罪の防止のため、複数の証人制度が整備された。
| 罪状 | 罰則 |
|---|---|
| 戦場からの逃亡 | 死刑 |
| 上官への背信 | 死刑 |
| 家畜の盗難 | 死刑または身体刑 |
| 姦通 | 両者とも死刑 |
| 商隊への襲撃 | 死刑 |
| 偽証、虚言 | 鞭打ちまたは財産没収 |
| 税の不正操作 | 財産没収、追放 |
| 宗教指導者への侮辱 | 鞭打ちまたは重労働 |
6. 社会秩序と道徳
-
老人、孤児、寡婦、貧者の保護を規定。
-
酒の過度な摂取や騒乱を防ぐための規制。
-
兄弟姉妹の間での和解と協調が奨励され、部族間の争いは国政の安定を脅かすとして重罪視された。
-
嘘をつく者、他人を陥れる者は重罪とされた。
ジャサクの法的性格と意義
ジャサクの最大の特徴は、その柔軟性と現実主義にある。モンゴル社会の変化に応じて法は変化可能であり、時に戦時の法令、時に平時の規範として適用された。形式的な法典というよりは、成文化された軍令・政令・社会的道徳規範の集合体であり、特定の法律書という形では存在しなかった。
そのため、イスラム世界や中国、ヨーロッパの法体系とは性質を異にするが、法の支配という概念においては、同様の原理(秩序、規律、公正)が貫かれていたといえる。
ジャサクの継承と影響
チンギス・ハンの死後、彼の息子たち、特にオゴデイ・ハンやクビライ・ハンの治世下でジャサクはさらに整備され、文字としても記録され始めたとされる。しかし、その正確な写本は現存しておらず、後世のペルシャ、アラビア、中国、ヨーロッパの記録に断片的に残っているのみである。
ジャサクはその後のモンゴル帝国の継承国家、たとえば元、イルハン朝、チャガタイ・ハン国、ジョチ・ウルス(後のキプチャク・ハン国)などにおいても基本法として尊重された。また、ロシアの一部の法制度や中央アジアの慣習法にも影響を及ぼしたとされる。
結論:法を超えた統治の原則
チンギス・ハンのジャサクは、単なる法律ではなく、「帝国の統治理念の体現」であった。それは、モンゴル帝国という多民族・多宗教・多文化の巨大な空間を、ひとつの秩序の下にまとめ上げるための統治哲学であり、倫理体系であり、軍規であった。
ジャサクは、「強さの中の正義」「恐怖の中の安定」「自由の中の規律」というパラドックス的要素を内包しながらも、結果としてモンゴル帝国の繁栄と拡大を可能にした。その精神は今日においても、国家の統治とは何か、法とは何かという問いに対して、貴重な歴史的教訓を提供している。
参考文献
-
René Grousset, The Empire of the Steppes: A History of Central Asia, Rutgers University Press, 1970.
-
Paul Ratchnevsky, Genghis Khan: His Life and Legacy, Blackwell Publishing, 1991.
-
David Morgan, The Mongols, Wiley-Blackwell, 2nd Edition, 2007.
-
村上正二訳『モンゴル秘史』平凡社、1970年。
-
宮脇淳子『モンゴル帝国が世界史を変えた』PHP研究所、2002年。
