バスツルマ(البسطرمة):古代から現代へと受け継がれる発酵肉の伝統
バスツルマ(Basturma)は、中央アジアからオスマン帝国、そして現代のトルコ、アルメニア、バルカン半島、中東に至るまで広がる非常に古い保存肉料理であり、その歴史は何世紀にもわたって人類の食文化の中で重要な位置を占めてきた。現代日本ではあまり知られていないが、発酵・乾燥・スパイスの絶妙なバランスによって生まれるこの逸品は、科学的にも味覚的にも非常に興味深い存在である。本稿では、バスツルマの起源、製造工程、栄養価、化学的特性、さらには文化的・社会的意義まで、包括的に検証していく。
バスツルマの起源と歴史的背景
バスツルマの起源は諸説あるが、最も広く受け入れられているのは中央アジアの遊牧民が馬肉や牛肉を長期間保存するために考案した方法である。紀元前の時代、遊牧民たちは鞍の下に肉を挟み、馬に乗ることで圧力と熱を加えつつ、自然乾燥させていた。この工程が“pastirma”(トルコ語で「押しつぶされたもの」)という語源につながっているとされる。
オスマン帝国時代には、アナトリア地方でこの技術が洗練され、ニーデ、カイセリなどの都市で高品質なバスツルマが生産されるようになった。特にカイセリ産のバスツルマは今日に至るまで名声を保っており、地域特産として保護されている。
製造工程の科学と技術
バスツルマの製造工程は、肉の選定、塩漬け、乾燥、圧縮、スパイスのペースト(チュメン)による被覆、さらに乾燥という多段階のプロセスからなる。以下にその主な工程を概説する。
1. 肉の選定
主に牛の赤身肉が使用されるが、伝統的には肩ロースやもも肉が好まれる。脂肪が少なく、繊維質がしっかりしている部位が適している。肉質は最終的な食感と風味に大きく影響を与えるため、品質の選別が極めて重要である。
2. 塩漬けと脱水
塩漬けは腐敗菌や病原菌の繁殖を防ぎつつ、タンパク質分解酵素の活性化を促進する。この工程では、通常1〜2週間肉を塩で覆い、冷蔵環境で保管する。その後、流水で塩を洗い流し、24時間程度乾燥させて水分を除去する。
3. 圧縮
圧縮工程では、肉を木板や重りで押しつぶすことで、内部の水分をさらに抜き、肉の組織を引き締める。この工程が「バスツルマ(押しつぶされた肉)」の語源に深く関係している。圧縮は約24〜48時間行われる。
4. チュメン(çemen)による被覆
バスツルマの風味の決め手となるのが、チュメンと呼ばれるペーストである。これは次のような材料から成る:
| 材料 | 用途と効果 |
|---|---|
| フェヌグリーク粉 | 独特の風味と抗菌作用 |
| ニンニク | 抗酸化作用と強い芳香性 |
| パプリカ | 色調と軽い辛味 |
| クミン | アロマの深み |
| 塩、水 | テクスチャー調整と保存性向上 |
このペーストは、完全に乾燥した肉の表面に塗布される。これにより、酸化や微生物の侵入を防ぐバリアが形成されるとともに、熟成中の風味の一体化が促進される。
5. 熟成・乾燥
塗布後、肉は風通しのよい場所で数週間から1ヶ月間自然乾燥される。湿度、温度、気流の管理が極めて重要であり、理想的には摂氏10〜15度、湿度65%前後の環境が望ましい。
栄養価と健康への影響
バスツルマは高タンパク・低糖質食品であり、以下のような栄養特性を有する(100gあたりの推定値):
| 栄養素 | 含有量 | 備考 |
|---|---|---|
| タンパク質 | 30〜35g | 高品質な動物性タンパク質 |
| 脂質 | 10〜15g | 部位によって差がある |
| ナトリウム | 1500〜2500mg | 塩分量に注意が必要 |
| 鉄分 | 約3mg | 貧血予防に有効 |
| ビタミンB群 | 豊富 | 特にB1、B2、B12が多い |
ただし、塩分が非常に高いため、高血圧や腎臓疾患を抱える人には過剰摂取を避けるべきである。現代栄養学的には、適量を前提にすれば健康的なスナックまたは前菜として評価されている。
微生物学的視点と発酵の役割
バスツルマの製造中には、望ましい微生物による自然発酵が進行する。塩分と乾燥によって有害菌の繁殖が抑えられる一方、ラクトバチルス属(Lactobacillus)などの乳酸菌が優占することで、軽い酸味と複雑な風味が生成される。このプロセスは、ハムやサラミなどの西欧型発酵肉と同様でありながら、スパイスの使用によって独自のプロファイルを持つ。
さらに、フェヌグリークには抗菌性サポニンとアルカロイドが含まれ、自然防腐の役割を果たしていることが近年の研究でも確認されている(参照:Journal of Food Science, 2021年, Vol. 86, Issue 5)。
バスツルマと文化的象徴性
バスツルマは単なる保存食ではない。トルコのカイセリ地方では、結婚式や宗教行事の際に重要なごちそうとして扱われる。また、アルメニアでは「バストゥルマ」として知られ、特にクリスマスシーズンに欠かせない料理の一つである。ブルガリアやギリシャでも地域ごとの変化を加えながら独自のバスツルマ文化が形成されており、民族的アイデンティティの一部ともなっている。
現代の応用と日本における可能性
日本の市場においてはバスツルマの知名度はほとんどなく、輸入品も限られている。しかし、発酵・熟成・乾燥という工程が日本の「鰹節」「味噌」「醤油」などと共通しており、日本人の味覚に馴染む可能性は高い。近年のクラフトチャーキーブームや発酵食品ブームの中で、スパイスを抑えたバリエーションを開発することで市場への展開が期待される。
結論と将来的展望
バスツルマは、保存技術・風味・栄養価のいずれにおいても優れた発酵肉食品であり、数千年にわたり人々の食卓を支えてきた。その製法には自然の力と人間の知恵が融合しており、科学的にも文化的にも極めて価値の高い存在である。今後、日本においてもこのような伝統食品を見直し、地域の食文化に融合させていく取り組みが重要となるだろう。
参考文献
-
Özdemir, M. et al., “Traditional Turkish Fermented Meat Product: Pastirma,” Food Control, 2019
-
Karapetian, M., “Basturma: Armenian Heritage in a Slice,” Journal of Ethnic Foods, 2020
-
Yilmaz, M.T. et al., “The Role of Spices in the Antimicrobial Function of Pastırma Coating,” Journal of Food Science, 2021
-
FAO/WHO Codex Alimentarius, Fermented Meat Products Guidelines, 2020
-
Turkish Statistical Institute, Regional Food Product Database, 2022
