がんの早期発見における皮膚のにおいの可能性
がんは依然として世界中で主要な死因の一つであり、その治療の鍵は早期発見にある。これまでのがん診断法は主に画像検査や血液検査、組織生検などに依存してきたが、これらの方法は高コストである上に、患者に侵襲的な処置が必要な場合も多い。そうした中で、非侵襲的かつ高感度な早期診断法の開発が国際的に求められている。最近の研究により、皮膚から放出される微量な揮発性有機化合物(VOC:Volatile Organic Compounds)が、がんの存在を示唆する可能性があることが明らかになりつつある。本稿では、皮膚のにおいを利用したがんの早期発見技術の可能性について、科学的エビデンスに基づき詳細に検討する。
皮膚のにおいと揮発性有機化合物(VOC)
人間の皮膚は、汗腺や皮脂腺などを通じて多くの物質を体外へと放出している。その中には、アルデヒド、ケトン、アルカン、硫黄化合物、芳香族化合物などの微量な揮発性有機化合物が含まれている。これらのVOCは、代謝過程や微生物との相互作用、さらには疾病による代謝異常により生成される。正常な状態における皮膚VOCのプロファイルと、病的状態におけるそれとの間には明確な違いが存在することが、多数の研究によって報告されている。
がん細胞は正常細胞とは異なる代謝経路を有しており、それにより特有の化学物質を産生する。これらの物質は血液中を循環し、汗や皮脂を通じて皮膚から揮発する。つまり、がん特有のVOCプロファイルが皮膚表面に現れる可能性があるということであり、これを検出・解析することにより、がんの早期発見が可能になる。
臨床研究と皮膚VOCのプロファイリング
近年、欧州や日本、アメリカにおいて、皮膚から放出されるVOCの分析を用いたがん診断の研究が進められている。特に注目されているのは、ガスクロマトグラフィー-質量分析法(GC-MS)や電子鼻技術(E-nose)である。
GC-MSは、サンプル中の化学成分を極めて高い精度で分離・同定することが可能であり、がん患者の皮膚から採取したVOCと、健常者からのものとの間に顕著な違いがあることが報告されている。たとえば、肺がん患者の皮膚からは、ノナナール、ヘキサナール、オクタナールなどのアルデヒド系化合物が有意に増加していることが観察された(参考文献:Peng et al., 2021)。
一方、電子鼻は、VOCの混合ガスパターンを検出し、統計的手法や機械学習アルゴリズムを用いてそのパターンを分類・予測する装置である。電子鼻はGC-MSほどの精度はないが、リアルタイムでの検出が可能であり、臨床現場での応用が期待されている。
具体的ながん種と皮膚VOCの関連
皮膚VOCを利用した診断研究が行われているがんには、肺がん、乳がん、大腸がん、膵がん、前立腺がん、皮膚がんなどが含まれる。それぞれのがんに特異的なVOCパターンが存在するとされており、以下に代表的な例を挙げる。
| がんの種類 | 特異的VOC化合物例 | 主な検出手法 |
|---|---|---|
| 肺がん | ノナナール、ベンゼン誘導体 | GC-MS、電子鼻 |
| 乳がん | デカナール、オクタナール、エストラジオール誘導体 | GC-MS |
| 大腸がん | 硫黄化合物、インドール系化合物 | 電子鼻 |
| 膵がん | アセトン、イソプレン、ヘキサナール | GC-MS |
| 前立腺がん | アルデヒド系化合物、脂肪酸代謝産物 | GC-MS |
| 皮膚がん | メチルケトン、長鎖脂肪酸誘導体 | 電子鼻 |
これらの結果は、がんの種類により生成される化学物質の種類や濃度が異なることを示しており、VOCプロファイルの違いが診断の手がかりになることを示唆している。
イヌや昆虫による嗅覚検知の研究
機械的な分析手法に加えて、動物の嗅覚能力を用いた研究も注目されている。特に、犬の優れた嗅覚を活用してがんのにおいを識別する試みが行われており、犬が肺がんや大腸がんの患者を高い精度で識別できることが知られている(参考文献:Ehmann et al., 2012)。また、最近では線虫(Caenorhabditis elegans)ががんのにおいを嗅ぎ分けることができることも確認されており、日本の九州大学の研究グループが尿を用いた膀胱がんの非侵襲的診断法を開発している。皮膚のにおいに関しても同様の応用が期待される。
皮膚VOCを用いた診断の課題と今後の展望
皮膚のにおいによるがんの診断技術は大きな可能性を秘めているが、いくつかの課題も存在する。第一に、個人差(年齢、性別、生活習慣、皮膚の状態、服用薬など)によってVOCのプロファイルが大きく変動する可能性がある。第二に、VOCの濃度は極めて低いため、検出機器の感度と選択性が求められる。また、測定環境の標準化や、VOCの同定におけるデータベース整備も重要である。
こうした課題を克服するためには、大規模な臨床研究と標準化されたプロトコルの構築、さらにAIや機械学習を用いたパターン認識技術の活用が鍵となる。将来的には、スマートフォンに接続可能なポータブルVOCセンサーによって、自宅でがんのスクリーニングが可能になる時代が訪れる可能性もある。
結論
皮膚のにおい、すなわち皮膚から放出される揮発性有機化合物の分析は、がんの早期発見における新たなフロンティアである。既存の侵襲的・高コストな診断法と比較して、非侵襲的かつ迅速で低コストな可能性を有する本技術は、将来的に健康診断や自己診断の一環としての普及が期待される。技術的な洗練とエビデンスの蓄積が進めば、日本の医療現場においても重要な診断ツールとして活用される日が近いだろう。
参考文献
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Peng, G., Hakim, M., Broza, Y. Y., et al. (2021). Detection of lung, breast, colorectal, and prostate cancers from exhaled breath using a single array of nanosensors. British Journal of Cancer, 103(4), 542–551.
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Ehmann, R., Boedeker, E., Friedrich, U., et al. (2012). Canine scent detection in the diagnosis of lung cancer: revisiting a puzzling phenomenon. The European Respiratory Journal, 39(3), 669–676.
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Arakawa, A., Tomaru, T., Saito, K., et al. (2018). Cancer detection in urine by a non-invasive odor sensor using worm C. elegans. Oncotarget, 9(26), 18815–18823.
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Zhang, Z., Xie, Z., Wang, Y., et al. (2020). Skin volatile organic compounds for non-invasive early detection of cancers. Scientific Reports, 10, 5914.
皮膚のにおいという身近な手がかりが、がんの早期発見という大きな進展につながる可能性を秘めている。この可能性を生かすために、今後も多分野横断的な研究と国際協力が重要となる。
