過敏性腸症候群(IBS:Irritable Bowel Syndrome)は、消化器系における慢性的かつ機能的な疾患であり、特定の構造的異常が認められないにもかかわらず、腹痛、腹部膨満、便通異常(下痢または便秘、またはその両方)などの症状が繰り返し現れる疾患である。世界中で非常に一般的であり、日本でも成人の10〜15%が何らかの形でこの疾患に悩んでいるとされる。症状は生活の質を著しく低下させることがあり、身体的苦痛だけでなく、心理的・社会的な影響も大きい。
定義と診断基準
過敏性腸症候群の診断には、**ローマ基準(Rome Criteria)**が国際的に用いられている。最新版であるローマIV基準(2016年発表)では、以下のように定義される:
「過去3か月のうち、平均して週に少なくとも1日、腹痛があり、それが以下の2項目以上と関連していること」
排便に関連している
排便の頻度の変化を伴う
便形状(外観)の変化を伴う
この定義に基づき、IBSは以下の4つのサブタイプに分類される:
| タイプ | 特徴 |
|---|---|
| IBS-D | 下痢が主症状 |
| IBS-C | 便秘が主症状 |
| IBS-M | 下痢と便秘が交互に現れる混合型 |
| IBS-U | 特定のパターンに当てはまらない非分類型 |
症状の詳細
腹痛・腹部不快感
患者の大多数が経験する主要症状であり、典型的には食後に増悪し、排便後に緩和する傾向がある。痛みの位置は下腹部に限らず、全腹部に広がることもある。
便通異常
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**下痢型(IBS-D)**では、急激な便意とともに水様便が複数回にわたり出現する。
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**便秘型(IBS-C)**では、週に3回未満の排便、硬便、排便困難感がみられる。
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**混合型(IBS-M)**では、便の性状が日によって異なり、予測が困難である。
その他の症状
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腹部膨満感(ガスがたまりやすくなる)
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残便感(排便後もまだ残っているように感じる)
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粘液を伴う排便
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食後の不快感や吐き気
原因と病態生理
IBSは器質的な異常(例:ポリープ、潰瘍、炎症など)がないにもかかわらず症状が現れる「機能性疾患」である。その原因は単一ではなく、以下のような複数の要因が複雑に関与していると考えられている:
1. 脳‐腸相関(brain-gut axis)の異常
脳と腸は神経系を通じて密接に連携しており、心理的ストレスが腸の運動や感覚に影響を与えることが知られている。IBS患者ではこの連携機能が過敏になっており、些細な腸内刺激にも過剰に反応する傾向がある。
2. 腸管運動異常
IBSでは腸の蠕動運動(内容物を移動させる動き)が過剰になったり、逆に遅くなったりすることがある。これが下痢や便秘の原因になる。
3. 腸内細菌叢(マイクロバイオータ)の異常
近年の研究では、IBS患者の腸内細菌の構成が健常者と異なることが明らかになっている。特定の有害菌が優勢になることで、ガスの生成や腸の炎症、感受性の変化が生じると考えられている。
4. 炎症および免疫系の関与
一部の患者では、軽度な炎症反応や腸の粘膜免疫の異常が報告されている。感染性腸炎後にIBSが発症する例も多く、これは「感染後IBS」と呼ばれる。
5. 心理的要因
うつ病、不安障害、パニック障害などとの関連も深い。IBS患者の多くは精神的ストレスや過去のトラウマ経験を抱えていることがあり、これらが症状の増悪因子となる。
診断の手順と除外すべき疾患
IBSの診断は、他の疾患を除外する「除外診断」の側面が強い。以下の疾患が疑われる場合は、適切な検査が必要である:
| 疾患名 | 検査法 |
|---|---|
| 潰瘍性大腸炎、クローン病 | 大腸内視鏡検査、血液検査(CRP、白血球) |
| 大腸がん | 便潜血検査、大腸内視鏡 |
| セリアック病 | 抗体検査(抗tTG抗体など)、小腸生検 |
| 感染性腸炎 | 便培養、便PCR検査 |
特に、以下の**警告症状(red flags)**がある場合は注意が必要である:
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50歳以上の初発
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体重減少
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発熱
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血便
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夜間の症状
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貧血
治療法
1. 生活習慣の改善
IBSの治療は生活習慣の見直しから始まる。以下の要素は症状の改善に大きく寄与する:
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食生活の調整:低FODMAP食(発酵性糖質を制限する食事)が効果的とされている。
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規則的な食事:1日3食を同じ時間にとる。
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十分な睡眠とストレス管理
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カフェイン、アルコール、脂質の過剰摂取を避ける
2. 薬物療法
| 症状 | 使用薬剤 |
|---|---|
| 下痢 | ロペラミド、ラモセトロン(5-HT3拮抗薬) |
| 便秘 | マグネシウム製剤、ルビプロストン(Cl-チャネル活性化薬) |
| 腹痛 | 消化管運動調整薬、抗コリン薬、SSRI/SNRI(抗うつ薬) |
| 腹部膨満 | 消泡剤、プロバイオティクス |
3. 心理療法・行動療法
認知行動療法(CBT)、催眠療法、ストレスマネジメントプログラムなどが有効であることが臨床研究で示されている。
予後と慢性性
IBSは命に関わる病気ではないが、慢性的に症状が続く傾向がある。症状の強弱には波があり、ストレスや環境因子によって再発しやすい。長期的には、患者自身が自分の体のリズムや症状を理解し、うまく付き合っていくことが必要となる。
日本における現状と社会的影響
日本においてもIBSは社会的な課題として認識され始めており、特に若年層や働き盛りの世代に多いことから、仕事や学業への影響も無視できない。通勤電車や会議中の急な腹痛・便意、試験中の腹部膨満などは、本人にとって大きなストレスである。
企業や教育機関における「IBSへの理解」はまだ不十分であり、今後の啓発活動が求められている。
おわりに
過敏性腸症候群は、その複雑な病態と多彩な症状から、診断・治療ともに容易ではないが、患者のQOL(生活の質)を大きく左右する疾患である。近年の研究の進展により、そのメカニズムは徐々に明らかになりつつあり、より効果的な治療法や予防策が期待されている。患者の個別性に応じた柔軟な対応と、社会全体の理解と支援が不可欠である。
主な参考文献
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Drossman DA. Functional Gastrointestinal Disorders: History, Pathophysiology, Clinical Features, and Rome IV. Gastroenterology. 2016.
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日本消化器病学会ガイドライン委員会. 「過敏性腸症候群診療ガイドライン2020」
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Ford AC et al. Efficacy of Prebiotics, Probiotics, and Synbiotics in IBS: Systematic Review and Meta-analysis. The American Journal of Gastroenterology, 2018.
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Ministry of Health, Labour and Welfare (Japan). 「IBSと職場環境に関する実態調査報告書」2021年.
