UAE(アラブ首長国連邦)の統一の歴史的な経緯とその形成
アラブ首長国連邦(UAE)は、1960年代後半から1970年代初めにかけて、複数のアラブ首長国が統一されて誕生した国である。このプロセスは、地域の歴史的背景、地理的な特徴、そして政治的な動向に深く根ざしており、UAEの形成には多くのステップと努力が関与している。以下では、UAEがどのようにして統一され、今日の国となったのか、その過程を詳述する。

1. イギリスの支配と保護領
19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて、現在のアラブ首長国連邦を構成する地域は、イギリスの保護領であった。この地域は、ペルシャ湾沿岸に位置しており、イギリスはこの地域の安全と安定を確保するため、各首長国と個別に協定を結んでいた。これらの首長国は、イギリスの保護を受けることにより、独立した政治的な統治を行っていたものの、国際的にはイギリスに依存していた。
2. 第二次世界大戦後の変化と独立の兆し
第二次世界大戦後、イギリスは財政的な困難と戦争後の再建に直面しており、その結果として植民地政策に変更を余儀なくされた。1950年代から1960年代にかけて、イギリスは中東における影響力を縮小させる方針を取るようになり、これに伴い、アラブ首長国連邦を形成する地域でも独立への動きが高まった。
3. 1968年:イギリスの撤退決定
1968年、イギリス政府は1971年末までにペルシャ湾地域から軍を撤退させることを決定した。この決定は、アラブ首長国の独立を決定づける重要な転換点となった。イギリスの撤退により、この地域の安全保障や政治的な安定性をどのように確保するかが課題となり、統一の必要性が増していった。
4. 1971年:UAEの創設
イギリスの撤退を受け、1960年代末には、アラブ首長国を統一するための対話が始まった。この際、主要な役割を果たしたのが、アブダビ首長国の指導者であるシェイク・ザイード・ビン・スルタン・アール・ナヒヤーンであった。シェイク・ザイードは、他の首長国と連携し、統一を目指す動きを主導した。
1971年12月2日、アラブ首長国連邦(UAE)が正式に創設された。この統一は、アブダビ、ドバイ、シャールジャ、アジュマーン、ウム・アル=カイワイン、フジャイラの6つの首長国が参加し、連邦国家が成立した。これらの首長国は、それぞれ独自の政府、法制度、軍隊を保持しつつも、共通の外交政策、国防政策、経済政策を共有することに合意した。
5. 1972年:ラアス・アル=ハイマの加入
UAEの創設当初、ラアス・アル=ハイマ首長国は加盟を見送ったが、その後の交渉を経て、1972年にUAEに参加することとなった。これにより、UAEの構成首長国は7つに増え、現在のUAEの形態が完成した。
6. 統一の進展と国際的な認知
UAEの統一が実現した後、国内の安定を確保するために様々な措置が取られた。シェイク・ザイードは、国内の経済発展と社会インフラの整備を進め、教育や医療の充実にも力を入れた。また、UAEは石油資源を活用して急速に経済成長を遂げ、国際社会における地位を確立していった。
7. 政治体制と連邦制
UAEは連邦制を採用しており、各首長国は高度な自治権を有している。連邦政府は、外交、国防、経済政策などの重要な事項を統括し、首長国の独自性を尊重しながら国全体の調和を図っている。また、UAEの政治体制は君主制であり、各首長国の指導者が連邦の最高指導者である大統領を選出する仕組みとなっている。
8. 現代のUAE
UAEは、創設から50年以上が経過した現在、経済的には中東地域で最も発展した国の一つとされている。石油資源を基盤とした経済発展に加え、観光業、金融業、テクノロジー産業など多様な分野での成長を遂げ、国際的な都市であるドバイやアブダビは、世界中から注目を集めている。また、UAEは地域的な政治や経済のリーダーシップを担い、国際社会でも積極的に役割を果たしている。
結論
UAEの成立は、単なる政治的な合意だけではなく、地域の歴史、経済、文化、そして未来に向けたビジョンが融合した結果である。イギリスの撤退から始まり、7つの首長国が一つの連邦国家として統一されるまでの道のりは、数多くの挑戦と努力を伴った。しかし、UAEはその後、世界的な影響力を持つ国として成長し、その統一の成功は、他の地域にとっても重要なモデルとなっている。